43 正行(まさつら)Masazra Tui Miki
正行が生まれてすぐは手と尻尾に戸惑ってはいたものの、山科の行った形成手術が優れていたため保育所に通う頃には余分にあった指も子猫ほどの長さの尾もきれいに取り除かれ外観上は普通の子供と全く変わりはなくなった。
正行が保育所に行くようになると三木はメスベンの診療所で看護師のパートを始めた。妊娠中に受けたIELTSは7.5だった。しばらくは英語学校に通ったが、それはあくまで今までに染みついたインディアン・アクセントを直すことが主な目的で、規定の7.0は余裕で超えることができた。大卒で看護師になっていることもあり、登録も比較的簡単に完了した。診療所の面接で冬場は日本人が多いからとタトゥーの件で少し不利にはなったものの、人手不足と黙っていれば日本人に見えないという理由で採用が決まった。
月日が流れるのは早いもので正行は5歳の誕生日を迎え、メスベンの小学校に入学した。小学校入学当初の正行は勉学で目立つことはなかったが、次第に頭角を表し、復活した飛び級制度に背を押され四年で卒業した。この間、三木は五歳からフライフィッシングを、七歳からは家にあった子供用の銃を使いクレー射撃を教えた。小学校卒業後の一年間はメスベンを起点にN国を車で旅し、さまざまな場所で釣りと狩猟を経験させた。十歳でAの寄宿舎付きの中高一貫校に入学した。三木は中高もすぐに卒業するのかと思っていたが、卒業までに6年かかった。成績は極めて優秀でIBもフルスコアだった。高校に入ると正行はさまざまな機械部品の特許を取得するように三木の元に書類を送ってきた。三木は弁理士に依頼し、正行が送ってきた書類に合わせて出願し、大きな問題もなくそれが受理されるのを楽しんでいた。一度、弁理士に正行がどのようなものを作っているのかと尋ねると「逆流しないように工夫されたポンプのようなものと思われる」との回答が返ってきた。
十六歳になると正行は運転免許と銃のライセンスを取り、三木に車をねだった。若いのでスポーティな車を選ぶのかと思っていたが、日本製で質実剛健な四輪駆動車だった。十六歳の子供が乗るには少々値が張るように思えたが、特に金に困っていた訳ではないので、要求を飲んで車を買い与えた。その車は実際の猟場に見合った形に架装され、正行はそれに乗ってN国北島のM大学に向かって旅立った。
大学在学中も特許出願の書類は次々と送られてきたが、大学に入ってからは遺伝子工学に基づいた膜や組織の合成方法が主となった。また、塩基配列やそれに関わる遺伝子やゲノムに関しても特許が出願された。非常に長鎖なものから極端に短いものまでが出願の対象となっていた。それに伴いいくつかの論文が発表された。再現性に関しては十分配慮されていたが、何に使用するためのものか、何のためにその物質を合成するのかがあまり明確ではなく評価の対象にはならなかった。加えて合成物質に脳血液関門を通過させる手法も従来のiPS細胞を用いたようなものではなく、新たに開発されたものであった。これは画期的な方法であり、かなりの高分子物質が脳血液関門を通過させることを可能にしたが、具体的に何を通過させるかが不明瞭で手法自体は評価されたものの、論文としての価値は低かった。しかし、発表された論文に対して特許の出願資料は極めて精緻で、付け入る隙のないものであった。この点に関しては三木でさえ気がつくほどであった。実際、正行が十九歳の誕生日前のクリスマス休暇でメスベンに戻ってきた時に本人に聞いた。この頃には先進国における平均寿命は男女とも百歳を超えており、美容外科手術やそのための機械も多く開発されており、六十歳といえども外見上は三十代半ばに見えないこともなかった。三木も正行が遅生まれということもあり、積極的に施術を受けN国に来た頃の若さを保っていた。




