最終話 ③
「待て」
敵は不意に狼を縛めから解き放ち、鎖を引き寄せる。
既に言葉すら通じないのか、狼はそれを好機と岩肌の地面を蹴って駆け出した。
「待てと言っている」
再度の声掛けにも反応せず、後足に力を込め飛び掛かる。
不意に差し出されたその手ごと喰い千切ってやろうと噛み付いた刹那――掌に握る何かに気付いて牙を離した。
敵――龍神の兄神の腕からは血が滴り落ち、周りに黒い魍魎の影が湧く。
「王海」
名を呼ばれ、ふらりと一歩後退ってから狼は神である事を思い出し、獣身化を解いた。
「王海、結界を」
ぼんやりと、何かを確かめるように鼻を震わせるが血の臭いに紛れて分からず、オオノ神は立ち尽くす。塊と化した魍魎が兄神に迫る。
「御前の探していた物まで魍魎に喰われてしまうぞ。結界を、頼む」
その言葉で我に立ち返り、琥珀色の瞳に強い色を宿したオオノ神は一瞬にして強固な結界を張り巡らせた。一気に霧と散らされた魍魎は口惜しそうにその周りを浮遊する。
安堵の息を吐くと兄神は懐から布を取り出し、器用に傷付いた腕に巻き付けた。途端に血の流れは止まる。
「い……今、何と言った?」
「ようやく言葉が通じるようになったか、この早合点のせっかち者の大馬鹿者め」
眉を怒らせ兄神は罵りながら掌を開く――そこには色褪せた紐の付いた、小さく丸い何かがあった。
「あの時、御前は空へと消えた賦神を追って行ったが……地にはこれが残されていた」
「そ……れは……ジンの御神体ではないか!!!」
そこにある物が、鏡の中心を飾る鈕であると認めると、オオノ神は慌てて駆け寄り、掴み取ろうと手を伸ばす。兄神はぴしりと音を鳴らして鞭で動きを遮り、握り締めた掌を高く上げた。
「欲しければ私に従うと誓え。でなければ……」
兄神は続く言葉を紡げなかった。気付けば打っ飛ばされ、酷く背を結界の壁に打ち付けられていた。余りの衝撃に御神体の欠片が手から離れ飛ぶ。
オオノ神は素早く拾おうと向きを変え駆け寄る。地に落ちる前に掬い上げようと手を伸ばし、拳を開く――掴もうとした指は届かず、飛んできた鞭に絡め取られた御神体の欠片は再び兄神の手に収まった。
怒りと焦燥に駆られたオオノ神はその身を震わせ、兄神の方を向いて仁王立ちする。
「そのような事をせずとも誓ってやる!!! 何故左様な事をするんだ!? 何だ、お前もジンに惚れたのか!!」
「な……」
思いも寄らぬ反応に、兄神は絶句した。あの美しい姿、柔らかな肢体が思い出されて頬が熱くなり、打ち消すように叫ぶ。
「馬鹿を言うな! 主神の座を取り戻せもせずにそのような事を考えられる筈が無いだろう!! 女子と見れば誰彼構わず尾を振り着いていく御前とは違うわ!!!」
「儂はただ、新たな一族が欲しいだけに過ぎん!! このっ、朴念仁めが!!」
「私とて同じ……一族再興の為に御前の……その無駄に大きすぎる力が欲しいだけだ」
「では、ジンを盾になどせず、ただ、頼め。儂はお前に恩がある。何でも……誓ってやる」
「……私が、賦神と戦った事を怒ってはいないのか?」
「あれはジンが仕向けた戦いだろう。〝この世界を元通りに戻す〟事が使命だと、事あるごとに口に出しておった。よもや己から滅されようとは思わなんだが……」
「使命? 使役されていた……のか?」
「全部話してやる。頼むから、ジンを返してくれ」
焦れた表情で両手を拳に握り締め、オオノ神は懇願する。
「誓い、とはどうすれば良いんだ……おお、そうだ。ヒトのように、こうすれば良いか?」
僅かに目を潤ませながらオオノ神は正座の姿勢を取り、大きな背を丸めて深々と頭を下げて地に平伏す。
己が崇められるべき〝神〟である事など微塵も気に掛けぬ態度に、呆気に取られて兄神は押し黙った。誑かされたにしては余りにも一途に賦神を請い求める様子に、冷酷ぶって優位に立とうとする己が馬鹿らしくなり、肩の力が抜ける。
これほど想う相手だ、素直に返してやろうと言う考えが一瞬、脳裏を過ぎったが、既の所で思い留まった。
今を好機として一気に天まで駆け昇る――主神有り得る者が情を見せては舐められる。
「頭を上げろ」
言われて素直にオオノ神は顔を上げる。
「ただ言葉に出して、最後に〝誓う〟と言うだけで良い」
半ば放心したような表情で、言われるがままに言葉を紡ごうとしたオオノ神であったが、不意に目を光らせた。
「待て。お前も誓え」
ぴくりと眉を動かし、何? と兄神は問う。
「決してジンを害する事なく、何があっても擁護すると」
「承知」
躊躇わず即答する様子にオオノ神は大きく頷いた。
そして二神は互いに誓いの言葉を紡ぐ……力持つ神の言葉は仄かに光を放ち、神界を覆う気に溶ける。
その様子を見届けると兄神はオオノ神へ向かい、手に握り締めていた御神体を放り投げた。オオノ神は慌てながらも両の掌を器にして確かに受け止め、ふわりと拳で包み込む。
恋焦がれ、追い求めた女神の小さな欠片が、確かな温もりを保って己の手の中に存在している――至極嬉しそうな微笑みを浮かべると、オオノ神は拳を開き、小さな鈕に口付けた。
先程まで争っていた兄神の存在など、全きにして忘れ去り……目を潤ませたまま、ただ、御神体の欠片を――愛しき女神を見つめる。
何とも温かな光景に比し、傍らで佇む兄神の冷静な目は、ただ、未来だけを見ていた。




