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最終話 ①

 鼻翼(びよく)を震わせ狼は全身全霊で匂いを追っていた。空に溶け、既に記憶の中以外には存在しない匂いを。

 己が神であるという意識は捨て去り只一匹の狼であった時の感覚を呼び起こす……いや、一匹では無く群れを率いていた頃の獣の感覚を。

 招かれざる身にも関わらず他神の神境の壁を食い破り、侵入し、ひたすら探す……探す。

 執着して止まぬ心は琥珀色の瞳を鈍く光らせた。


 天高く飛ぶ烏から視線を下ろし、龍神の兄神は里を見渡した。誰にも見せた事のない寛いだ表情を浮かべると、肩の力を抜いて背を木の幹に預ける。

 流星禍の妖は去り、神界は一時の平穏を取り戻したのだが……龍神の兄弟は御礼行脚(おれいあんぎゃ)に訪れる神々の接遇に追われ、ここの所は息の着く間もない程の忙しさであった。

 館の客間に収まりきらぬ所か、中庭や、川の上にまで(ゆか)(しつら)えねばならぬ程に多くの神々や眷属が訪れ、里の道には帰りの夕暮れ時を照らすように灯篭が灯された。

 この忙しさは狐のせいである。

 あの日、空に解放された神々の神気を龍体と化した兄弟が集めて雨と降らせ、御使い狐たちが地で受け取り東へ西へと配って回る――その際、〝龍神が流星禍の妖を退治した〟と喧伝したのだ。

 義理堅い神々は我先にと御礼に訪れ、普段は表へ出ない兄神も率先して接遇した。その際、〝己では無く弟が(とどめ)を刺したのだ〟と、説明をして回ったのだが……勿論、事実は違う。これから先の我らの為に、と兄弟で話し合って決めた筋書きだ。

 妖退治の功績を元に地神界の神々の支持を得、天神界へと昇る。そうして主神の座に君臨するのだと。

「あれは天からの使者か?」

 何時の間にか現れた女神は空を見上げて問うた。既に空遠く、日輪の中の烏は黒い点と化している。

 木の幹から背を離し、兄神は女神に正対して礼をする。

「こんな所まで済まない」

 問いには答えず、兄神は口端を僅かに上げた。

「構わない。我ら以外に耳は無さそうだ」

 女神――ウカノ神は凛々しい微笑みを見せてから、表情を引き締める。胸元から一通の書状を取り出すと、目の前へと突き付けた。

「討伐令が下った」

 ぴくりと眉を動かすと、兄神は書状を受け取り、中を開く。

「あ奴は己の神境を放棄し、獣身のままで神々の神境への無断侵入を繰り返しておる。近寄らば威嚇をするのみで牙を振るう事はないようだが……聞いた所によると、何かを探しておる様子」

「……噂では、恩義ある主神様の神気を探しているとか」

 はっ、と声を上げてウカノ神は嘲笑する。

「とんだ美談を流した物だが……こういう話はどうだ?」

 無言で兄神は書状に目を通す。

「我が眷属に火燐と申す狐が居るのだが……幾度か賦神に請われその膝で丸くなっていたそうでな。まるで母のように柔らかな膝であったそうな。その上、時折、女神の匂いがした、と」

「……それで?」

「オオノ神は頻繁にかの神境へ出入りしていたと言う。あ奴は賦神の幻を追っておるのではないか? お主が滅し、既に消えた……かの妖を」

 返事を待つでも無く、とすれば、とウカノ神は続ける。

「永遠に手に入れる事は叶わず、奴は再び(まが)つ神と成ろう。そうなる前に手を打たねばならぬが……見ての通りか弱き女神には到底荷の重き話」

 そうでは無い事を承知している兄神は小さく笑う。

「〝下界の神々共に手を携え任務に当たれ〟とある故、是非助力を……」

 薄く笑んだまま、いいや、と兄神は言う。

「助力では無く、私独りで事に当たろう」

 おお、と大げさに身を仰け反らせウカノ神は喜びを露わに笑み、すぐに真面目な面持ちに戻って問う。

「正体を失くしているとは言え……どう事を行うつもりだ?」

「切り札が……ある」 

 ああ、とウカノ神は得心して頷く。

「神具〝縛狼鎖〟があったか。とは言え、油断はするな」

 無論、と兄神は不敵に笑った。

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