田舎にて
人生で初めての経験や体験をする時。
人間は、どのような感想を述べるのだろうか。
「そういえば、貴方の出生は今まで聞いた事が無かったね。とても、新鮮な感覚だよ」
私が言った。
ちなみに、ここまで出生の話が話題に出てこなかった理由は、私自身が自分の身の上を話したくなかったからである。
「そうですね。今まで話す機会もなかったですし、貴方が言いたくなさそうにしていましたからね」
「気付いていたのか。てっきり気付いていないとばかり思っていたんだが、勘が鋭いね」
雄一郎さんは「そんな事ありませんよ」と言って笑っていたが、私は、本当に気付かれていないと思っていたのだ。
そんな問答を繰り返しながら、私は本命の理由は解っていないという事実に安堵していた。
本命の理由とは、知識の共有である。
彼は様々な知識を私に共有してくれたのだ。
私も持ち得る様々な彼に知識を共有していたので、その意見交換の場が、身の上の事情よりも魅力的だったのである。
「知識は此の世で最も素晴らしい宝である」と言ったのは誰であったか。
素晴らしい言葉を残してくれた事に感謝したい。
しかしその結果が、出会ってから数年経った今日なのである。
少しは反省をした方が良いだろう。しかし、後悔はしていない。
この要因は、私たちが根っからに知識欲の塊だったからなのか。はたまた、彼の話し方が上手いからなのか。
その両方か。真相は当人達でも知らぬ事だ。
けれども、決して興味がなかったわけではない。
言い訳がましくなってしまう事は自覚しているが、彼の頭脳の知識がどのように形成されたのか、それには興味があったのだ。
だから、彼の生まれの話は大変興味深く、彼の話に耳を傾けたのだ。
「それでは、続きを話しましょうか。そうですね。僕が住んでいたのは、いわば、田舎と呼ばれるような土地でした」
ゆっくりと、昔話を幼子に聞かせるかのような声だった。
自分の故郷を思い出しているのだろう。その風景に浸り、懐かしんでいるようでもあった。
「空気の澄んだ美しい土地です。山には木々が生い茂り、動物も様々な種類の動物がいました」
「へえ。例えば?」
あまり動物と触れ合う機会がない私には、とても興味深い内容である。
「そうですね。鹿に鳥、それに栗鼠のような小動物もいました。まさに、天然の動物博物館、見本市のようなものでした」
「それは、良いね」
私の身近には、そのような存在はなかったのだ。
「でしょう?それだけでは、ありませんよ。なんと、季節ごとに様々な作物が採れたのです」
「作物?山葵とか?」
山に自生すると、聞いた事があったのだ。
「なぜ、よりによって。違います。ですが、そうですね。春には土筆やからし菜、菜の花が採れましたよ」
「からし菜?」
それ、なに?
これが、私の心境である。
「おや。聞いた事がないので?からし菜は菜の花に似た作物なのですよ。味は、随分違いますがね」
「へえ」
初めて知った。
「さて。次は夏です。夏は楽しかったですよ。川で、魚を採ったりしましたから」
「川で?」
昔は、遊泳禁止ではなかったのだな。
驚きである。
「はい。川です。そして秋は、様々な茸が採れましたよ」
「茸狩り、か」
今でも毎年、大人気な行事である。
「似ていますね。しかし冬は、植物は少ないので苦労しました。その代わり、布団で優雅な一日を過ごしていましたがね」
現代社会と同じ楽しみ方をしている。
「最高だね」
「でしょう?今となっては、良い思い出ですよ。さて。これが僕の実家です。自然の豊かな緑豊かな土地でした」
この時、雄一郎さんはまるで子供同士の秘密を打ち明けているかのように話していた。
それにしても、高層住宅の立ち並ぶ私の出身とは、比べものにならない自然豊かな暮らしだ。羨ましくも思えてくる。
「そこでの生活は、何も不自由がなかったとは言えません。それでも、自分の生活の事を不自由だと思ったことはありませんよ」
「そうなんだ。でも、そんな生活は憧れるよ。私も一度そんな生活を送ってみたいな」
都会は、空気が、悪いのである。
「良いものですよ、何より空気がおいしい。」
「最高だね」
間髪入れずに言った。自然が豊かだと、車の往来で咳き込む事もないだろう。実に、素晴らしい環境である。
「さて、話を戻しましょうか。僕の両親についてです」
「待ってたよ」
ようやく、雄一郎さんのご両親の事を知る事が出来る。
「お待たせしました。それでは、母から紹介しましょう。僕の母は、随分と博識で様々な事を教えてくれました」
「私の母とは、随分違うね」
しかし、納得した。そのような博識な母親のおかけで、雄一郎さんの知識が増えたと知れたからである。
「それは、そうでしょう。歩んできた人生が違うのです。しかし母の知識量の多さには、驚きましたね」
「貴方が?」
「僕が、です。なにせ、子供ながら母の頭の中には、辞書が入っているのだと本気で思っていた程ですからね」
「それは、凄いね」
歩く大百科、という事か。
「ええ。僕の知識の大半は、母のおかげですからね。次に、父の話をしましょうか。しかし、父は寡黙な人でしたから」
「あまり、話さなかった?」
「ええ。しかし、よく仕事を手伝ってくれ、と私を畑に連れていき、稲刈りや野菜の採集などの貴重な経験をさせてくれました」
「それは、良かったね」
心からの本音だった。
「ええ?その時の事は、今でも色褪せることはありません」
幼少期の思い出は、大人になっても貴重な物だと理解はしていたが、ここまでとは思わなかった。
しかし同時に納得した。幼少期から、様々な事を経験してきた雄一郎さんだからこそ、その知識を活かす事が出来たのだろう。
「なるほどね。貴方の博識さは、母親と父親からのものだったのか」
私は自分の疑問が解消されるかのような、胸のつっかえが取れたような、晴れやかな心持ちになった。知識の、出自が解ったからだろう。
「ええ。仰る通りです。けれども、虫を取り、悪さをしては母に叱られる、そんな平凡で穏やかな日々を僕は過ごしていたのです」
「貴重だね」
そんな日々を、平凡と言えるのだ。
「そうですね。それに学校に通っていましたし、決して多くはありませんが、代えがたい友人にも出会えました。その経験も、今の僕を形作っているのでしょうね」
すると、雄一郎さんは急に言葉を止め、眩しいものを見るかのような、愛おしい我が子を見守るような顔をした。
「彼に出会ったのも、そんな時でした」
雄一郎さんは記憶の中から宝物を手繰り寄せるかのように言った。
「年の数は覚えていませんが、一桁か二桁になった頃だったでしょうね。ちょうど冬に降った雪が解けた時期の事でした。山が衣を羽織ったような美しい色に染まっていた事は、今でも覚えています」
少し意外だったのは、雄一郎さんが詩的な表現を好む事だろうか。
いつもは、そんな事ないのだが今日は気分が良いらしい、と言うよりも饒舌であると言った方が正しいような気がする。
「春は、様々な花が顔を出すでしょう」
その景色を思い出しているのだろう。雄一郎さんは楽しそうに言った。
そして、私は雄一郎さんの言葉に「そうだね」と言いながら、思考を巡らせたのだ。
春は芽吹きの季節と言える。それは文学の世界でも、変わらない事である。春という存在がなければ、あの穏やかな風も、匂いも存在しないのである。
古今東西、この世界の至る所で、花を愛でる文化がある事は知られている。
四季に優劣をつける訳ではないが、桜や梅などを題材にした作品が数え切れないほどある事は事実だろう。
冬越えをした花々を愛でるのは、遙か昔の雅で美しい平安時代から、今この瞬間、発展を遂げる現代まで続く、永き色濃い素晴らしい習慣なのだ。
春は、数えきれないほどの花々が咲き乱れる。
桜、鈴蘭、桃、牡丹、勿忘草、梅、藤の花。
水仙、蒲公英、白木蓮、杏、山吹、福寿草。
まさに花の饗宴の如く、ひしめき合い、絨毯のように一面に咲くのである。
そして、それらとは対極的に、独り芝居の如く、孤独を楽しみ、ひっそりと誰にも悟られぬよう、隠れているような花もあるのだ。
まさに千差万別、多種多様な個性の花が踊るように咲いているのである。
そんなことを頭の中で考えていた時だった。
「あの時の事は、今でも鮮明に思い出せます」
雄一郎さんが言った。力強い、宣言のようだった。
「僕は特に行き先があるわけでもなく、春の花々の数々の観察に身を委ねて、直感を信じて山を歩いていたのですよ」
「は?」
「そんな事をしていたからでしょうね。どれ程歩いたのか解りませんが、自分の見知らぬところまで来ていましてね」
「は?」
絶句。
もはや驚いて言葉にならないとは、この事だったのだろうか。
いや、ほとんどの思考を巡らせて返答が雑になっていた私が、こんなことを言えるような立場ではないかもしれないが、改めて言おう。
絶句。その言葉に尽きる。
雄一郎さんに少年のような冒険心があったという驚きと、子供ながらの好奇心による無鉄砲さに対しての恐怖で、私の頭は、数秒の間思考を止めた。
しかし、山での迷子など命にかかわるだろう。
言葉を選ぶという事もせず、言った。
「そんな馬鹿みたいな事をしておいて、よく無事だったね」
現状、私にできる精一杯の返答だった。
「ええ。本当におっしゃる通りで。ですが、いつものお叱りの比ではないほど、怒られるという覚悟は決めていましたよ」
「そっか」
他に心配する事があるだろう、とは言えなかった。
「はい。かといって、このまま山道に留まるわけにもいかないでしょう?ですから、まずは開けた場所に出ようと、足を進めまして」
雄一郎さんが、不意に言葉を止めた。
「その時でした。それは、それは、美しい白い洋館が姿を見せましてね」
雄一郎さんはその洋館の姿が、今、私の目の前にあるかのように話す。
いや、私の事は見えていないのかもしれない。
「まるで、その場所だけここではない。どこか異国の地なのではないか、と思わせる雰囲気さえありました」
その姿を、思い出しているのだろう。
雄一郎さんは今まで見たこともないほど楽しそうに、目は子供のように輝きだし、口数は多く早口になり、その洋館について話しだしたのだ。
「その洋館は実に見事だしたよ。息を吞むほど美しいという言葉を、貴方もご存じでしょう?」
「知ってるよ」
良く、国語の授業で出て来た言葉である。
「良かったです。ああ。何が言いたいのかと言いますと」
「うん」
「あの言葉が、この洋館を表すためだけに生まれたのだと思った程、美しかったという事です」
「そう、なんだ」
私は、雄一郎さんの言葉に圧倒されながら、言った。
どうやら、その洋館には建築美という言葉が相応しいようだ。
今まで雄一郎さんは私と話す時に此処まで饒舌になるような事がなかったのが良い証明である。聞いている私まで楽しくなる程であった。
無論どんな話でも楽しいのだが、それは野暮というものだろう。
そんな事を考えていたら、上機嫌な雄一郎さんは、更なる言葉の雨を降らせた。
「僕は、それまで洋館を実物は見た事がなかったんですよ。しかし同じ学校の友人が持っていた本位で数回、見たことがありまして」
「そうなんだ」
「ええ。けれど、こんなところに洋館があるなど考えられらかったものですから、最初は幻覚ではないかと思いましたよ。」
「え?なんで?」
「なぜって、山で遭難した先で見つけた美しき建物ですよ?おとぎ話に出てくる桃源郷のようではないですか」
ああ。納得した。
確かに、雄一郎さんが楽しそうに話しているから忘れかけていたが、当時の彼は山で遭難中なのである。
それならば、この洋館が現実なのか、それとも、幻想の類なのか。その判断すらも危うくなっていても可笑しくはない。
けれど、そんな事は些事であるかのように雄一郎さんは話を続けた。
決して些事ではないと思うが、というか些事にしないでほしいが、雄一郎さんにとっては、そんな事はどうでもよかったようだ。
「さて。その洋館はまるで、純白な祝服を身にまとっているような、そんな美しさでした」
雄一郎さんが、言った。
「それだけではありません。その美しい姿に装飾を施すかのように、薔薇が絡まっていましてね」
もしや、雄一郎さんは詩人なんじゃないだろうか。
そうでなければ、こんなに素晴らしいほどの表現を、口から二酸化炭素を吐き出すが如く話したりは出来ないだろう。
そんなことを思うくらいに、私の頭は彼に圧倒されてしまったのである。
「その姿は、なにかの生き物に覆われているかのようでした」
そして、雄一郎さんは少し考えるような素振りを見せて、こう続けた。
「そうですね。例えば、肉食動物が草食動物を食べる時のような、言い方が悪いかもしれませんがね」
凄い。凄い例えだ。
そんな私の感動を置いて、雄一郎さんは続ける。
「けれど、とても似ていると思うのですよ。まるで食物連鎖の生き写しのような、そんな雰囲気が、あの洋館にはありました」
「そう、なんだ」
「ええ。血液のように赤い色をした、不気味で、けれども、美しい薔薇が洋館を囲むかのように咲いていたのです」
「赤い薔薇が肉食獣で、白い洋館が草食動物か」
「ええ。そして僕はその姿があまりにも美しかったので、洋館そのものが薔薇の養分であるかのように感じたのです」
雄一郎さんは笑っていたが、そこまで言われれば見たくなってしまうのが人の性である。
古来より、人は欲深いものとして知られているのだから、これは仕方がない事だろう。
神話の世界からのお約束である。そんな現実逃避じみたことを頭の中で思いながら、話を聞いていた時だった。
「まあ、そのまま立ち尽くしていても、仕方がないと思いまして。洋館の扉を開けることにしたんです」
雄一郎さんはそう言ってほくそ笑んだ。
その姿はまるで、自分の巣穴に食材を招きいれる蜘蛛のようで、とても妖艶だった。
元々あったお話を、分割致しました
それでは、次回作にご期待ください




