開幕にて
序章
遠い昔に犯した失態は、想像以上の笑い話になるらしい。
今日の、教訓である。
……ああ。
相も変わらず、この店は美しい。
いつも通り窓際の席に座っていた私は、西洋の陶器に注がれた紅茶を嗜みながら、ふと、そのような事を思った。
私の名は、古川 満。
名前の由来は……。
両親曰く、私の誕生日に見た川に映った満月が印象的だったから、らしい。
真相は、あまり解らない。
……性別は。
生物学的な情報だけで見れば、男に分類される筈である。
しかし、これ以上の詳しい情報は……。
今は、必要ないだろう。
……ああ。
それにしても、私の向かいの席で乳製品菓子を頬張っている老人は、いつになったら食事を終えるのだろうか。
なにせ食べ始めてから、既に時計の長針は半月を描き、もうすぐ満月になろうとしているのだ。
流石に店主のご友人である西洋菓子職人が作った、このお店にしか存在しない特別品だとしても、長すぎる。
ちなみに、この老人の名は霧雨 雄一郎。
恐らく、雨と霧が多かった地域の長男だったのだろう。
私の数少ない友人であり、恩人である。
それにしても、この喫茶店の料理は、実に美しい造形をしている。
……今も黄色の蘭の花色の乳製品菓子が、雄一郎さんの口の中に吸い込まれて。
ああ、違う。
そんな事を、言いたいのではない。
なにせ、このお店の料理が美味しそうなのは、いつもの事なのだ。
それに、このままでは、また自分の思考に耽ってしまうのである。
だから、私は自身の思考を遮るために
「相も変わらず、貴方の勧める店は外れがないね。初めて来た時の事を思い出すよ」
と、雄一郎さんに告げたのだ。
実際、この店に来た時の衝撃は、今でも忘れる事が出来ない。
なにせ……。
私は数秒の間、棒立ちになり話を聞く事すら出来なくなってしまったのである。
すると、その時。
私の言葉を聞いて、何かを思い出したのだろう。
雄一郎さんは微笑を浮かべながら
「おや。あの時の事ですか。いや、あの時の貴方は良かったですよ」
と、言ったのだ。
「解ってるよ。棒立ちの案山子になった時の事でしょ?」
だが、私だって自分の苦い記憶には蓋をしておきたい。
だから、雄一郎さんの先手を打って、この言葉を……。
「違いますね、何を言っているのですか?」
「は?」
なぜ、雄一郎さんの方が私より驚いているのだ。
驚きたいのは、私の方なのだが……?
なにせ私は、そのような事を言われる理由を、私は棒立ちした事実以外、何も持ち合わせては……。
いや。
まさか、あれの事を言っているのか?
「何を惚けているのです?僕は、あの時の貴方の行動を思い出すだけで、こんなにも笑えるというのに」
なるほど。
どうやら、私の推測は合っているらしい。
だが、まだ確信は出来ない。
だから、私はこの心の疑念を晴らすために、少し訝しげに
「あれって、そんなに、面白かった?」
と、こんな事を言ったのである。
そう。
自分で考える事実と、客観的な事実は異なる。
だから私は、わざと言葉を濁して雄一郎さんの考える私の失態についての言葉が出てくる、その時を待ったのだ。
……まるで、大海に泳がせた鮭が戻って来るのを待つ漁師のように。
すると、雄一郎さんは
「当然です。今でも揶揄うのが、とても楽し。いや、失礼。とても見ごたえがあったものですから?」
と、言い出した。
「そっか。本音が隠せてないよ」
とても、失礼である。
次からは、もっと上手に隠してほしい。
これでは魚を釣る前に、私の心が干されてしまうではないか。
それに、直接言われると流石の私でも悲しくなってくるのだ。
まるで子猫の威嚇を笑いながらいなす、飼い主のような態度をとられたのだから、当然である。
だが、そのような事、雄一郎さんには関係なかったのだろう。
「僕は正直者なのです。それに、面白かった事には、変わりありませんからね」
この開き直り具合を見れば、解る。
……だが、それはそれ。
「へえ。それなら、今だけ詐欺師になってくれても良いよ?」
なにせ嘘で救われる命が、ここにあるのだ。
ああ。
これで面白くなかったと言ってくれたら、どれほど素晴らしい事だろう。
なにせ、私の黒歴史が一つ消せるのである。
だが、現実はそんなに甘くない。
激辛料理のように、辛いのだ。
「お断りします。なにせ、あんなに堂々と部屋を間違えたのですよ?」
だが唯一、甘かった点があった。
それは、雄一郎さんの考える私の笑い話を、私よりも先に答えてくれた事である。
おかげで、私は自分の犯した失態を間違えずに済んだ。
流石に、もう間違えたくなかったのである。
しかし、そんな私の心境など、川の溝に流されたのだろう。
「ええ。僕にとっては、喜劇主義者の舞台よりも面白かったです」
雄一郎の言葉が、続く。
それにしても、雄一郎さん。
新しい玩具を与えられた子供のような満面を笑みを浮かべながら、人の苦い思い出に塩を塗るのは、人として、性格が中々ではないか?
だが、ここで変に何かを述べるべきではないだろう。
「そう、か。嬉しくないお言葉を、どうもありがとう」
だから私は、嫌味を返す代わりに、感謝を返したのだ。
なにせ、私が何も面白い反応を返さなければ、雄一郎さんがつまらないと感じるのである。
そうすれば、雄一郎さんの笑みも少しは良くなる筈なのだ。
「喜んで頂けましたか?」
「いや、全然」
だが、嬉しくはない。
第一、嫌味を言われて喜ぶのは、私の昔の知り合いくらいだ。
……私は、違う。
「それにしても、そこまで言う?」
「おや。と、言いますと」
「だって私は、宴会室だと思って喫煙室に堂々と間違えただけだよ?」
いや、十分か?
だが、あれは仕方ないだろう。
誰が、あの美しい中世風の装飾が施された長机や椅子や豪華絢爛な天井釣りの硝子が吊るされた部屋を見て、喫煙室だと気付ける?
少なくとも、私には無理だ。
まあ。
確かに、あの部屋だけ喫茶店の中で異彩を放っていたから、察しろという事だったのだろう。
駅前の喫煙室に群がっている人達の光景を思い出す。
「あれは僕にとっては、一年の中で一番の傑作でしたね」
「私にとっては、一生に犯した失態の五本指に入るくらいには、駄作なのに?」
どれくらい駄目なのか?
思わず
「そこらの三文作家の方が、もっと良く書ける」
という反論が心の中で呟けるくらいには、駄目である。
「おや。そうお思いで?」
すると、雄一郎さんは私の顔を見ながら、こう言ったのだ。
……驚いた。
ああ。
とても、驚いたとも。
まさか、雄一郎さんの目は、節穴だったのか?
それとも、私の顔が相も変わらず無表情だったのか?
「駄作だよ。だって私の顔、人に見せられない表情だったでしょ?」
「ええ。その表情が、面白かったのですが」
ああ、そっちか。
なるほど、良い趣味である。
「でも、あの部屋。元々は団体様専用の部屋なんだろう?」
「ええ、僕の想像ですがね。ああ。しかし、こう思い返してみると、過去の僕は惜しい事をしましたね」
「え?」
惜しい事?
それは、一体。
「なにせ、あのまま訂正しなければ、もっと面白くなっていた事でしょうからね」
「そう。それなら過去の貴方に、感謝した方が良さそうだ」
私は、間髪入れずに答えた。
なにせ、恥の上書きをせずに済んだのである。これは、感謝以外の何物でもないだろう。
すると雄一郎さんは
「おや。そんな事を言わないでくださいよ。今でも後悔しているのですから」
と言って、過去の失態から逃れるように、先程店主に頼んでいた紅茶を飲んだのである。
まあ。
私からしてみれば、それは感謝するべき事なのだが、雄一郎さんからすると、後悔するべき事として算出されるのだろう。
「本当に、良い性格してるよ」
「おや。ありがとうございます」
「嫌味だよ」
念のため、言った。
「おや」
相も変わらず、通じていなかったが。
「でも、この場所を勧めてくれた事には、本当に感謝してる。これは、嫌味じゃないよ」
だが、これは本心だった。
なにせ私にとって、この店は学校だったのである。
お読みくださり、ありがとうございます
それでは、続編をお待ちください




