感激にて
やはり、雄一郎さんは素晴らしい。
これは、私がこの日再認識した事である。
ああ。
ようやく、雄一郎さんの思い出話が聞ける。
そう、思った時だった。
雄一郎さんが
「そうですね。僕が初めてその場所を知ったのは、もう何十年も前のことになるでしょうか」
と、口元に手を当てながら、懐かしそうに呟いたのである。
だが、それは私にとって、想像以上に昔の事だったので
「へえ。随分、昔の話のようだね。それにしても、その話って、男二人で話す事かい?」
と、私は意地の悪い事を言ってしまったのだ。
だって、私が生まれてない時代の話なのである。
話が、通じないではないか。
だが、雄一郎さんは口元に笑みを浮かべながら
「偶には、良いでしょう」
と言ったのだ。
どうやら、私の心配事は雄一郎さんにとって、吹けば去っていく砂と同じようなものならしい。
つまり、どうでも良いという事だ。
そして、その瞬間。
私は、雄一郎さんの白髪交じりの黒く短い髪が、静かに揺らめいている姿を見た。
ああ。
なんて美しい……。
思わず、そう思った。
そう。
私は、その姿に目を奪われたのである。
なんと、言い表せば良いのだろう。
星の欠片という言葉が合っているのだろうか。
残念ながら、私は雄一郎さんの姿を適切に現せる程の語彙力を身に付けていないのである。
ああ。
これほど悔やまれる事は、他にないだろう。
ただ、これだけは言う事が出来る。
雄一郎さんは、私のような一般人とは異なる存在感を漂わせているのだ、と。
まるで、刀だ。
触れれば怪我をすると解っていながら、怪我を承知で、求める事を止められないからである。
まあ。
雄一郎さんの背筋も、纏う雰囲気も直刃のように美しいから、ある意味間違えてはいないだろう。
そして実は、その美しい姿に見惚れながら雄一郎さんの話を聞くのが、私の密かな趣味でもあった。
理由は単純だ。
彼ほど所作が美しい人を私は見たことがなかったからである。
なにせ過去の私は、雄一郎さんの姿勢を見て、
「これは、数千円払って美的姿講師に、美的姿の基礎を一から習うのが馬鹿馬鹿しいな」
と、心の中で思った事もあるのだ。
そう。
それだけ、雄一郎さんの所作は、目を見張る物があったのである。
これが、紳士的な男性の姿という事なのだろうか。
私には、出来ない事だ。
「それにして、相も変わらず貴方の声は、不思議な感じがするね」
そして、ああ。
忘れてはいけない。
雄一郎さんは、姿のみならず、声まで美しいという事を。
そう。
雄一郎さんの声は、特徴的なのである。
まるで。
海を泳ぐ鯨を眺める小魚がその大きさに驚くような。
森の雄大さに感激する探検家が、新種の植動物を見つけて言葉を失うような。
そんな感覚が、雄一郎さんの低く抑揚のある声を示すのに、合っているだろうか。
すると、その時雄一郎さんが少し呆れたように、こう口を開いたのである。
そう。
「その台詞を聞くのは、一体、何回目でしょうね?」
と、雄一郎さんが言ったのだ。
ああ。
それは……。
「軽く、十回は超えているだろうね」
だから私は、雄一郎さんの言葉に慣れたように、こう答えたのである。
なにせ、この問いかけも十回も超えているのだ。
慣れて当然の事である。
そして、その時だった。
先程の私の言葉を聞いた雄一郎さんが、
「そんなに同じ事を何回も言って、飽きないのですか?」
と、言ったのである。
は?
何を、言っているのだろう。
この人は。
「飽きないよ。呼吸するのに、飽きる人がいるかい?」
恐らく呼吸に飽きる人は、いないだろう。
もし、いたとしても、呼吸を止めたら生存出来ないのだ。
だから、いない筈である。
そして、私も呼吸には飽きない。
故に、同じ言葉を何度でも繰り返そう。
雄一郎さんの声は、素晴らしい、と。
なにせ、雄一郎さんの声は、まるで鋭利な刃物で沈黙を切り裂いているような、そんな鋭く、芯のある声をしているのである。
「おやおや。呼吸と同じように褒めてくれるとは、随分と嬉しい事を言ってくれるのですね」
「私は思った事を、そのまま言葉にしてるだけだよ」
気分は、国王への賛歌を紡ぐ、国民である。
推しを目の前に興奮する崇拝者とも言える。
「でも、そんなに良い声をしている理由は何だろうね。声帯かな、声量がある訳ではないのだろう?」
「そうですね。声が小さい、と怒られました事の方が多いのだ。しかし声帯については、僕自身が詳しくないので、何も言えませんよ」
「そっか。相も変わらず、不思議な良い声だね」
「ありがとうございます」
だが、こんな事を言っているが、私は真剣だ。
なにせ、他にも不思議な事があるからである。
「まあ。一番不思議な事は、貴方が話し始めた時に起こる、貴方以外の声が何も聞こえなくなる、あの現象だけどね」
そう。
これだ。
「そうですね。知らない人が聞いたら、新手の宗教勧誘か何かだと、勘違いされそうです」
なんて?
宗教?
「え。そんな恐ろしい事を、言わないでくれよ」
それでは、凄まじい語弊を生みだしてしまうではないか。
そんな見当違いを起こされても、私は弁解できるような語彙力を持ち合わせていないのだ。
間違いなく、危ない人間判定が下されるだろう。
そこで、私は
「小説を読み漁っている時に起こる、いつの間にか就寝時間が迫ってた時の感覚が、一番似てると思うんだよ」
と通算何度目かの弁解を雄一郎さんにした。
「何度も聞きましたから、知っていますよ。しかし、それは僕に夢中になっている、という事ですか?」
「言い方を考えてくれ。違うよ、貴方の話に夢中になっているんだ」
「おや?何か間違っていましたか?」
「大いに、間違ってたよ」
変な勘違いをされるのだ。
だから雄一郎さん、言動には気を付けた方が良い。
そして、私の心が修行僧のような強靭な精神力であった事を感謝した方が良い。
そうでなければ、私は羞恥心と煩悩に苛まれて、この場から全力疾走で逃げ出しているところだ。
ちなみに、同じ大学の知り合いの頭の中が恋愛一色な奴に雄一郎さんの話をしたら、
「なんか、恋する乙女みたいだな」
と言われた事がある。
なぜだ?
私は、雄一郎さんの説明をしただけなのである。それなのに、なぜ。
それに、私は別に雄一郎さんに恋愛感情を持っている訳ではないのである。
確かに、私は雄一郎さんの姿に焦がれ、この胸の内を彼に知らせる事がないように、思考に蓋をして生活をしている。
だが、この感情は友愛であり、敬愛であり、尊敬なのだ。
決して、脳内お花畑な奴らと同じような間違いを犯してはならない。
そう。
ここでは、青春群青恋愛劇など存在しないのである。
けれど、このままでは欠陥が出るという事も、私はよく知っている。
実際にそのような経験をした事もあるのだ。
だから私は、無理矢理自分の思考を変えるために
「それより、今の私の頭の中は、貴方の年齢が幾つなのかっていう疑問に夢中かな」
と言ったのだ。
このような事を続けていたおかげだろう。
昔よりも人と話をするのが、苦手ではなくなったのだ。
思い返す度に嬉しいような、嬉しくないような複雑な心境になるが、結果としては、喜ぶべき事だろう。
「けど、貴方の過去なんて到底想像が出来ないな。これで学校を抜け出して、様々な悪戯をしてたとかだったら面白いけどね」
しかも最近はこのような、少し意地悪なことも言えるようになったのである。
成長している。
そして、これらの言葉は茶化しながら言わなければいけないという事を、私は忘れてはならない。
そうでもしなければ、察しの良い雄一郎さんの事だ。
何かの拍子に、私の心の奥底にある感情に気付かれる可能性があるのである。
すると、雄一郎さんはため息をつきながら、昔の自分の失態を思い出したのか苦い顔を浮かべた。
「まったく。僕は六十と少し年を重ねただけの老人ですよ。それに、あの時の僕はまだ少年といわれるような年の頃合いでしたから」
「沢山、悪戯したの?」
「してません。しかし世の理など知らず、毎日泥にまみれた服で野を駆け回る、呑気な子供だった事は確かですよ」
「本当かい、信じられないな」
ああ。
気が付いた時には、声が漏れていた。
なにせその言葉は、別の人を説明していると言われた方が納得出来る程には、今の姿からかけ離れていたのである。
単純に、信憑性が無かったのだ。
それは、今の雄一郎さんの装いを見えば、解る事である。
なにせ雄一郎さんの今日の装いは、美しい黒のゆるい服と白のしまった服だからである。
これには、誰も雄一郎さんの幼少期が泥塗れな少年だとは思わないだろう。
それに私は、雄一郎さんが外で着ていた黒の革衣の胸元に、深紅の薔薇があしらわれている事も知っている。
断言しよう。
探偵、超能力者、科学者、画家。
そのような稀有な存在であっても、雄一郎さんの幼少の姿を言い当てる事は出来ない、と。
そして私は凡人なので、もっと無理である。
だが、今はそれよりも……。
「人の成長は、服装にも影響があるんだね」
そう。
これである。
「ええ。小さい頃に西洋の貴族服に憧れていた子供が、大人になって着物を着ているのと同じ事ですよ」
「そっか。解りやすいね」
つまり成長すると、服も纏う雰囲気も変わるという事だろう。
そのような事を心の中で思いながら、私は自分の服装を見返して、項垂れた。
なにせ今の私の装いが、雄一郎さんの服装に比べると、あまりに貧相なのだったからである。
誰が、使い古された灰色のゆったりした服に祖父から貰った白の無地の服を美しいと思う?
ちなみに装飾品の類は、私には縁遠い存在であり、上着も今日は持ってきていないので意味がない。
ああ。
まったく……。
これでは、服の理解に乏しい私が、ただ恥をさらしているではないか。
だが、外出中に服を着替える訳にもいかない。なにせ、替えの服がない。
ここは潔く、存在感を空気と同列にした方が良いだろう。
まあ。
解りやすく言うと、彼の服装と私の服装は月と鼈、宙と地のようなものであるという事だ。
ああ。
そして、これこそ……。
私という周りに気を配れない凡人と、雄一郎さんという周囲を気遣える善人の差なのだ。
やはり、雄一郎さんは素晴らしい。
だから誰も、雄一郎さんを超える事が出来ないのだ。
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