開幕にて
序章
遠い昔に犯した失態は、想像以上の笑い話になるらしい。
今日の、教訓である。
賑やかな店内を見渡しながら、私、古川 満は、
「相も変わらず、貴方の勧める店は外れがないね」
と、目の前に座っている老人に向かって告げた。
「初めて来た時の事を思い出すよ」
眼前に座っている老人の名は、霧雨 雄一郎。
私の、数少ない友人の一人である。
すると、私の言葉を聞いて、何かを思い出したのだろう。
微笑を浮かべて、こう言ったのだ。
「おや。あの時の事ですか。いや、あの時の貴方は良かったですよ」
「え?」
何か、面白い事でもあっただろうか。
いや。
まさか、あれの事を言っているのか?
「なにせ、あの時の貴方の行動を思い出すだけで、こんなにも笑えるのです」
「あれって、そんなに、面白かった?」
雄一郎さんの言いたい事を理解した私は、少し訝しげに聞いた。
「ええ。当然です。今でも揶揄うのが、とても楽し。いや、失礼。とても見ごたえがあったものですから、ね?」
「そう。本音が隠せてないよ」
とても、失礼である。
次からは、もっと上手に隠してほしい。
直接言われると、流石の私でも悲しくなってくるのだ。
しかし、そのような事、雄一郎さんには関係なかったのだろう。
「僕は正直者なのです。それに、面白かった事には、変わりありませんからね」
「そう。今だけは、詐欺師になってくれても良いよ?」
そして、面白くなかったと言ってくれ。
そうすれば、私の黒歴史が一つ消せるのだ。
「お断りします。なにせ、あんなに堂々と部屋を間違えたのですよ?」
そして雄一郎さんは、私の言葉を待たずに、こう言葉を続けた。
「ええ。僕にとっては、喜劇主義者の舞台よりも面白かったです」
とても、褒められた。
いや。
これは、褒めているのだろうか?
嫌味ではないか?
本音を隠そうとしなくなり、面白そうに微笑を浮かべているのが、良い証拠だ。
確信した。
これは、嫌味だ。
「そう、か。嬉しくないお言葉を、どうもありがとう」
「喜んで頂けましたか?」
「いや、全然。それにしても、貴方が言ってる部屋の件って。私が喫煙室と宴会場を間違えて入ろうとした時のやつだろう?」
しかし、あれは、仕方ない事だろう。
喫煙室が豪華な造りをしていたのが、悪いのである。
「ええ。あれは傑作でした」
「駄作だよ」
恐らく、そこらの三文作家の方が、もっと良く書ける。
「おや。そうお思いで?」
「だって、とても恥ずかしかったからね」
「ええ。その表情が、面白かったのですが」
そうか。
良い趣味である。
「でも、あの部屋。元々は団体様専用の部屋だろう?」
「ええ、僕の想像ですがね。ああ。しかし、こう思い返してみると、過去の僕は惜しい事をしましたね」
「え?」
惜しい事?
それは、一体。
「なにせ、あのまま訂正しなければ、もっと面白くなっていた事でしょうからね」
「そう。それなら過去の貴方に、感謝した方が良さそうだ」
私は、間髪入れずに答えた。
なにせ、恥の上書きをせずに済んだのである。これは、感謝以外の何物でもない。
「そんな事を言わないでくださいよ。今でも後悔しているのですから」
そう言って、雄一郎さんは過去の失態から逃れるように、先程店主に頼んでいた紅茶を飲んだのである。
私からしてみれば、それは感謝するべき事なのだが、雄一郎さんからすると、後悔するべき事として算出されるのだろう。
「本当に、良い性格してるよ」
「おや。ありがとうございます」
「嫌味だよ」
「おや」
相も変わらず、雄一郎さんには、意味が通じていなかったらしい。
「でも、この場所を勧めてくれた事には、本当に感謝してる。これは、嫌味じゃないよ」
「そうですか。そう思って頂けたのであれば、良かったです。しかし、僕は良いと思った店を貴方に紹介しているだけですよ?」
「本当に?」
私は、雄一郎さんの言葉が信じらず、思わず聞き返した。
「ええ。本当です」
「まあ。偶々、偶然選んだ店が良かったっていう可能性もあるよね」
「僕が選んだ店で、悪かった店、ありましたか?」
「一度もないね」
それどころか、私が選んだ店の方が悪いのである。
例えば、店員が包丁を振り回したり、会計をぼったくられたり、である。
まあ。
色々と、あったのだ。
「まったく。しかしそう言いながら貴方、僕との食事も、店選びも、随分と楽しんでいるではないですか」
「それは、いや。てか、なんで貴方がそんな事言えるんだい?楽しんでいるかは、貴方には解らないじゃないか」
実際のところ、図星だったのだが、当人に知られるのは、恥ずかしかったのである。
すると、雄一郎さんが笑いながら、
「気に入っていなければ、誘っても来ないでしょう。貴方は」
と言ったのだ。
「いや、あの。それは、そうだね?」
だから。
なぜ、解る?
どうしよう。
雄一郎さんの、私に対する理解度が高すぎて怖い。
いや、ここまで高いと可笑しく思えてくる。
だって、そうだろう。
私は雄一郎さんの誘いを断った事は、今まで一度たりともないのである。
それなのに、なぜ私が興味がない場所には行かないと雄一郎さんは断言出来るのだ?
断わる事がないから、気に入っていると思われているのだろうか?
そんな私の困惑は、見事に放置されたらしい。
雄一郎さんが紅茶を飲みながら、
「それにしても、貴方が此処に来るのは今日で三回目でしょう?このお店に慣れたのではないです?」
と 言ってきたからである。
そして、突然の問いに驚きながら、私の頭はこのような結論を出した。
この人は、一体、何を言っているのだろう、と。
「いや。そんな訳ないだろう」
想像以上に、強い声が出てしまったが、仕方ない。心の声が漏れてしまったのだ。
「おや。そうですか?」
雄一郎さんは、不思議そうに私を見つめていたが、答えは変わらない。
確かに、私がこの店に来るのは三度目である。しかし、この店に来るのが気にならないか、と問われれば、話は変わってくる。
例えるのであれば、甘味一色の店に、男が一人で入っていく時に感じる、あの気まずい雰囲気だ。
そう。
慣れる筈がないのである。
それに、一人でこの喫茶店に迷わず辿り着ける自信もないのだ。
そんな事を思いながら、私は雄一郎さんに向かって、拗ねたような口調で言った。
「そうだよ。知っているかい?人は環境に適応していく生き物だけど、適応出来ない人だっているんだ」
「貴方の事ですか?」
「その通りさ。いや。一応、適応してる風には、取り繕っているけどね」
そうでなければ、集団行動が苦手な私が、集団行動の巣窟たる学校などという場所に無遅刻無欠席で通えている筈がない。
「あと、誤解がないように言っておくけど、私はこの店は好きだよ。それは変わらない」
適応出来るか、出来ないか。
これは、重要な事だ。
だが、出来ないからといって嫌いな理由にはならないだろう。
「でも、慣れる事は、絶対にない」
そう。
大事なのは、これだけだ。
「強情ですね」
すると、雄一郎さんが揶揄うように、このような事を笑って言った。
だが、貴方だって、随分と強情である。
人の事は言えないだろう。
「いや。貴方は、若人が集まる店に言った事がないから、解らないんだよ。あの、店に入った瞬間に感じる、何、あいつ、みたいな視線の恐ろしさをね」
私は一度経験して、心が折れた。
「貴方も、十分、若いでしょうに」
「そんな事は、関係ないんだよ。変なやつが来たって思われるだけで、辛いんだから」
「そう、なのですか?」
「そうだよ。それに、それはこの店も同じだ。未だに外見と内装の違いに慣れなくて、右往左往している私がいるんだからね」
事実である。
それに、雄一郎さんには秘密にしているが、私は、今日だけでも三回程、迷子になりかけたのだ。
そう。
お手洗いに行くために離席して自席に帰るだけで、これなのだ。
ちなみに、無事に自席に帰る事は出来た。
数分、喫茶店の店内を散策したが、帰れたのだから、問題はない。
うん。
十分、不審者である。
「おやおや」
「そんな姿を他のお客さんが見て、どう思う?」
「それは、随分と怪しいですね」
「ああ。変なやつだって思うだろうね。だから私は貴方と一緒に行く時しか、この店に入れないんだよ」
他にも理由はあるが、ここで言う必要はないだろう。
「残念ですね。貴方が一人でこのお店に辿り着けるように、待ち合わせ場所をこのお店に変えようと思っていたのですが」
「却下」
「即答ですか」
当然である。
雄一郎さんのその言葉は、私に頭痛と腹痛を同時に与えたのだ。
ちなみに、頭痛の種は雄一郎さんの悪戯に対する苦労が原因であり、腹痛の種は、待ち合わせ場所に辿り着けない不安が原因である。
「それは、そうだよ。本当にやめてくれ。多分、あと十年くらいは無理だね」
「おやおや。随分と長いですね」
「自信がないんだよ。私が気弱な事は貴方も知っているだろう。それとも、迷子の子羊を、貴方が導いてくれるのかい?」
私は、いつもの意趣返しのつもりで、このような事を雄一郎さんに向かって言った。
「おや。貴方、狼に導かれるのが、お好きだったので?」
「嫌です。お断りします。好みじゃないです」
しかし、甘かった。
雄一郎さんには、私の反抗的な言葉が一切響いていなかったのである。
逆に、こちらの方が攻撃を受けているのだから救えない。
「おやおや。見事な三拍子ですね」
雄一郎さんはとても楽しそうだ。
私は、とても怖いというのに。
「貴方、本当に良い性格してるよ」
「褒め言葉ですね」
「それに、貴方の店を選ぶ感性には毎回驚かされる。これも事実さ」
「おや。嬉しい事を言ってくれますね」
「事実だからね。むしろ、誇っても良いくらいだよ。自分はこんなに良い感性を持ってるんだぞってね」
「貴方、出る杭は打たれる、という諺をご存じですか?」
雄一郎さんは、呆れたように告げた。
私にはこれまでの人生で関係のなかった話だが、雄一郎さんには、何か苦い思い出があるらしい。
「知ってるよ。だから、偶には、私以外の友人でも誘えば良いと言っただろう?」
「数秒間前の僕の言葉、覚えていますか?」
「覚えてるよ。でも、きっと友達なら喜んでくれるよ。いや、そっか。誘っても来る人が居ないのか」
これは、先程の恐ろしい誘いの一件の仕返しである。
言い過ぎたような気がするが、それは、この際考えない。
なにせ、私の攻撃的な言葉など、雄一郎さんにとっては、子猫に噛まれた程度の痛みなのである。
意味がないのだ。
雄一郎さんの余裕そうな表情を見れば、解る。
「おやおや。これは手厳しい。しかし、貴方は本当に口が上手くなりましたね。最初に出会った時とは大違いです。まだ、あの時の方が可愛げがありました」
「貴方のおかげだよ」
ほら、効いてない。
「おやおや。ですが、気を付けてくださいね。その口の上手さは、誰かを傷つける事になるのですから」
「仰る通りで」
反論の仕様もない、正論だった。
雄一郎さんの言葉が、私の繊細な心に刺さる。
すると雄一郎さんは紅茶を一口飲みながら、こう続けた。
「ですが、貴方と話す方は宝石のように貴重な存在ですからね。そのような事は起こらないでしょう」
「訂正して。純金くらいには、貴重だよ」
「おや。それは失礼。しかし友人の数で言うのであれば、僕は貴方とは違って、相手によって態度を変えないから、少ないのです」
「それは」
「貴方は、違うでしょう、みつる君?」
とんでもない反撃である。
恐らく、私が雄一郎さんを出し抜ける日は来ないだろう。
しかし、それ以上に雄一郎さんの言葉が保護者の様だった事が一番気になる。
まるで、子を見守る母のような言葉だったのだ。
後方保護者面、という言葉が頭に浮かんだ瞬間である。
「いや、確かに貴方の言う通りだけど」
だが、宝石云々という言葉は、心にきた。
例えるなら、猫のような俊敏さで相手の首に噛みつこうとしたのに、相手の犬に首筋を掴まれて強靭な顎で体を噛み砕かれたような感覚である。
そう。
私の吐いた毒舌が可愛く思えた程には、雄一郎さんの言葉は攻撃力が高かったのだ。
これが、自分で己を貶す事と、他者からの罵倒を受ける事の違いだろう。
身をもって知った。
それだけではない。
雄一郎さんは、私が他人に対して、猫を被っていた事も知っていたのである。
しかも、私の呼び方が、みつる君になっているのだ。
不味い。
雄一郎さんが私の事を名前で呼ぶ時は八割九割、私に対して何か苛立ちを募らせている時なのだ。
揶揄いすぎた。
その言葉が、私の心を支配した。
足の小指から脳味噌に向けて駆け巡る罪悪感と悪寒で、頭が回らなくなったのだ。
「みつる君?どうかしましたか?」
雄一郎さんが、私に向かって言った。
「ああ、いや、何でもないよ」
「そうですか?少し体調が悪そうに見えますが」
「気のせいだよ。心配性だね。それじゃあ世間話もここまでにして本題に入ろう。今日はどんな話をするんだい?」
そして私は、この気まずい空気から抜けるために、わざと話題を変えた。
自業自得。
そんな言葉が頭を掠めたが、知らない振りをした。確かに、この気まずい雰囲気は、元はと言えば私の失言が原因である。
だが私は、この現実を受け入れたくなかったのだ。
だから、元々の話題から、話を逸らしたのだ。
しかし、無理矢理話題を変えようとしたからだろう。
お得意の毒舌は見る影もなくなっていたのである。
ちなみに、雄一郎さんは私に苛ついていたのではなく、揶揄っていたらしい。
後で知ることが出来た。
しかし、そのような事、今の私には藪の中である。
すると、雄一郎さんは、悪気のない顔をしながら、こう言ったのだ。
「そうですね。いつものように貴方との歓談を愉しむのも一興ですが、今日は趣向を変えて僕の思い出話に付き合ってください」
「思い出話?貴方の?」
私は、驚きながら言った。
少し、意外だったからである。
そう。
いつも話す内容とは、かけ離れていたからだ。
「そうです。言い方は気に障るかもしれませんが、飲み会で上司の自慢話を聞かされるようなものですよ」
そして、その言葉に、私は先程の言葉遊びの事など忘れ、内心意味の分からない例えをするものだと首を傾げたのだ。
「お忘れかな、私はまだ学生だよ。だから飲み会の上司の自慢話はまだ経験したことがないんだよ」
「おやおや」
「その反応は、完全に忘れていたね。けど、その言い方だと好いものではないんだろう?想像は出来るよ」
「おやおや」
二度目である。
雄一郎さんは同じ言葉しか、発さなかったのだ。
しかし、一度目は驚きながら、二度目は私の想像力に対して感嘆しながらという違いはあった。
そして私は、そんな雄一郎さんの反応を見ながら、話を続けた。
「好きな話題が出た途端に、いつも寡黙な人が突然饒舌になって、歯止めが利かなくなるのと、きっと同じことだね」
私の知り合いにも、そんな人がいる。
「それとも、授業中に突然始まる教授の自慢話の方が合っているかな。どちらにしろ、貴方が話をするんだったら別だよ」
なぜなら、教授の話はつまらない自慢噺であり、雄一郎さんの話は全てが面白いからである。
「さて。何時間でも付き合うよ。なんなら、夜まで話してくれてもいい」
私が言った。
そしてこの時、雄一郎さんは私が学生であるという事実を、綺麗に忘れていたのだろう。
顔を掌で覆いながら、恥ずかしそうにしていたのである。
その姿を見て、私は紅茶で喉を潤してから、続きの言葉を紡いだ。
「ああ。とても、気になるね。どんな愉快な思い出話を聞かせてくれるんだい?」
その瞬間だった。
雄一郎さんは、まるで照れ隠しでもするかのように、私の顔を見て
「まるで、小学生が博物館に行った時のような顔ですね」
と言ったのである。
しかし、それがどのような表情なのか、私には解らなかった。
だが同時に、自分でも口角が上がっている事は理解していた。
きっと、明日の私は表情筋の痛みに苦しむ事だろう。
そして、いつもの調子を取り戻した雄一郎さんは、私を揶揄うように
「夜までは、さすがにかかりませんよ」
と愉快そうに言って話を始めたのである。
雄一郎さんの掌は、いつの間にか普段の定位置に戻っていた。
そして、これが、全ての始まりだった。
お読みくださり、ありがとうございます
それでは、次回作にご期待ください




