怒りにて
怒りは自身の品性を歪ませ、困惑は自身の思考を停止させる。
人間の心理とは、不可解で、不愉快で、歯止めが効かない物である。
私はこの事を、痛感する事になる。
ああ。
私は、言葉を失った。
まるで、太陽は東ではなく西から昇ると言われたかのような感覚だった。
なにせ雄一郎さんが、私に向かって
「帰る」
と言ったからである。
だから私は、その言葉の意味を上手く飲み込めなかったのだ。
だが、これは当然だろう。
なにせ、このままでは店主が持ってきてくれた紅茶を、美味しく味わう事が出来なくなってしまうのである。
私は、紅茶の違いを理解するために新しい紅茶を注文したのではない。
私は、雄一郎さんの話を聞くためのおつまみに紅茶を注文したのだ。
だから私は、その事実を理解してくれない雄一郎さんに、沸々と苛立ちを募らせたのである。
いや。
確かに、私は会話とは関係のない事を頭の中に浮かべていた。
それは、認める。
……だが、帰宅はない。
なにせ、これでは自分の出番の直前に、監督から舞台の降板を告げられた役者と同じでは……。
いや。
これは、さながら遊戯の終盤の最終戦だ。
そう。
次、失敗を重ねると後がないという緊張感の中、親に突然呼び出されて、結果的に失敗して絶望する、あの状況と同じなのである。
だから、慈悲をくれ。
保存そして、時間と言う名の恩情をくれ。
そうしなければ、無理なのだ。
ああ。
余りの衝撃に、斜め上どころか、そんな意味の解らない思考をしてしまった。
だが、そんなことを考えていた私には、見向きもせず、雄一郎さんは会計の準備を始めていたのである。
素晴らしい、行動が速い。
まだ帰宅に対する承諾すらしていないのに、こんなに素早く行動するとは、尊敬に値する。
もし、これが他の機会であれば褒めていただろう。しかし、それは、今ではない。
だから、私は思わず
「なんで、急にそんな事」
と心の中の不満をぶつける様に、雄一郎さんに詰め寄ったのだ。
当然である。
ここまで面白い話をしておきながら、残りの話はお預けなど、外国の昔話のようではないか。
待たされる側の経験ができて、いい機会だと考える程、私の心は寛容ではないのだ。
まあ。
自分で言う事ではないが、私は面倒臭い性格をしているのである。
だから、そんな私に待て、と言う方が無謀というもの。
まあ。
私と犬では、犬の方が聞き分けが良いのだから、当然かもしれないが……。
なにせ、今の私の頭には続きが気になって仕方がない、という思いしか存在していなかったのである。
そう。
我慢勝負に一秒で負ける自信がついてしまう程には、欲に忠実だったのだ。
だから私は、まるで長年連れ添ってきた恋人に縋りつくように、雄一郎さんに帰宅の理由を尋ねたのである。
例えが壊滅的に悪いが、そんな事は現状よりは些事である。気にもならない。
いつもであれば、気にするのだろうが、今となってはそんな事、塵と同じだ。
気にする事ではない。
そう、思った時だった。
見た雄一郎さんが、会計の準備を一旦止め、聞き分けのない子供に聞かせでもするかのような態度でこう言ったのである。
「洗濯物が、心配なのですよ」
「……へ?」
せんたくもの?
確かに、今日は良く晴れているから洗濯物日和だが……。
なぜ、急に?
ああ。
それは何とも、拍子抜けするような返答だった。
余りの拍子抜け具合に、今までの面倒くさい思考が、軒並み消え失せ程である。
「洗濯物です。空を見てください、この空模様ですよ。いつ降っても、可笑しくないじゃないですか」
「あ、ほんとだ。確かに、怪しそうな空だね。さっきまでは晴れていたのに、今は真っ黒だね」
気が付かなかった。
先程の言葉は訂正しよう。
洗濯物日和ではなく、洗濯物不日和だった。
だが、どうやら私は話に夢中になりすぎていたらしい。
なにせ、晴天だと思っていた空が、今では曇天模様になっているのである。
「でしょう?それに今日、雨に降られると困るのですよ」
……こまる?
「え。何か大事なものを干していのかい?」
ああ。
そして私は、自分で聞いておきながら、心配になってしまったのだ。
なにせ、重要なものを干していた場合、罪悪感で苦しくなるのは目に見えていたからである。
「ええ。実は敷布団を干していましてね。このままでは、布団ではなく床で寝ることになります」
「……それは、一大事だね」
雄一郎さんが、床で寝ている姿を想像して、やめた。
想像しなくても、解る。
それは、翌日の体が悲鳴を上げる。
……ちなみに、これは経験則である。
まあ。
そんな事を考えられるくらいには、少し冷静になっていたのだろう。
「そうなのですよ。ですから名残惜しいですが、今日はこの辺でお開き、ということにしませんか?」
「解ったよ。さっきは声を荒げてしまってすまなかったね。謝罪するよ」
そして冷静になり、一番最初にした事は謝罪だった。
自分の感情を制御や制御する事は難しいと知っていたが、それでも、先程の対応は、ないだろう。
「いえ、突然言い出したのは、僕の方ですからね。紅茶も頼んだばかりだったでしょうに」
「いや、そんな事は貴方の布団より重要じゃないよ」
事実だった。
紅茶の一杯と、今日の睡眠。
比べるまでもなく、後者の方が大事だ。
なにせ、紅茶一杯は別に飲まなくても生活に支障はないが、睡眠は支障があるのである。
優先順位は東から太陽が昇るが如く、明らかだった。
だから、この瞬間。
私は、先程の行動を恥じたのだ。
あまりにも、自分の欲に忠実になりすぎていた事を、自覚したのである。
他者には他者の都合があり、私には私の、雄一郎さんには雄一郎さんの都合がある。
当然の事だ。
この世の摂理に他ならない。
だが、それを考えるよりも先に、自分の欲を優先してしまったのだ。
まったく、救いようがない。
話に集中しすぎて、目の前の天候という当たり前に気にする事象にすら目が向かなくなっていたなんて、どんな笑い話だろうか。
「恋は盲目、知は狂信、か」
そんなことを考えたからだろう、こんな可笑しな事を言ってしまった。
私の現状が、雄一郎さんの話に盲目的だったからだろうか。
そうだ。
この世には、恋は盲目という言葉があるのだ、と思ってしまったのだ。
「貴方の現状ですか?」
「恥ずかしい事だけどね」
違うのは、その盲目的な対象に向ける感情が恋慕であるか、知識欲であるかという点だけだろう。
ああ。
このような思考を出来るくらいには、冷静になったらしい。
もう少し早く冷静になった方が良かったのだろうが、それは後の祭りである。
「恋は盲目という言葉はよく聞きますが、後者の言葉は聞いた事がありませんね」
「そうだろうね。なんせ、私がたった今思い付いた言葉なんだから」
所謂、造語というやつだ。
「おや。随分、的を射た思い付きですね」
「そうだね、自分の事なのに驚いてるよ」
まあ。
私は単純に、知識欲は時に命すらも天秤にのせる怖ろしいものだという事を言いたかったのだが……。
それは雄一郎さんの知らぬ事だろう。
それに実際、知る事に全てを注ぎ込む行動は、知識の重要性や意味を理解出来ない者からしたら、狂気の沙汰なのである。
そして、この言葉は思った以上に雄一郎さんには好評だったらしい。笑っているのだ。
実に、解りやすい。
だが、そこまで思考して、私はその欲望を制御しなければならないという事実を恐れてしまった。
なにせ、知りたいという欲に鍵をかけるのである。
これは、難しい事この上ない。
……禁欲とは恐ろしいな。
「次に修行僧に会った時には、尊敬の念を送ろう」
そう、心に決めた瞬間だ。
なにせ、そうでもしなければ先程の失態の二の舞になる事を解ったのである。
自重しよう。
そう、心に決めた瞬間だ。
そして、自重しようと決めた心に鍵をかけるためには、ここでお開きにするという行動は、確かに良い選択だろうとも思った。
思いがけず、雄一郎さんの行動に救われたと言ってもいい。
ありがとう、雄一郎さん。
先程の謝罪と共に受け取ってほしい。
そう、心の中で呟き、私たちは次に会う時の約束を取り付け、別れた。
次に会う約束の日は、二週間後だった。
ああ。
白状しよう。
この時の私は、自分の知的好奇心を舐めていたのだ。まさか、ここまで苦しいものだとは、思ってもいなかったのだ。
私は、余り考えすぎる質ではないと、この時までは思っていたのだ。
今まで思考の渦に何度も呑まれていながら
「今更、何を言っているのだ」
と思うかもしれないが、そこまで非道いという自覚はなかったのである。
だが、この二週間に起こった事と思うと、その言葉を撤回しなければいけなくなるだろう。
なにせ、空腹になって食事を取ろうとした時、雄一郎さんの話を思い出して注意力が削がれ床に飲み物を零した。
他にも、授業を受けている時に、雄一郎さんの話が頭を過ぎり集中力が欠如し、内容が頭に入ってこなかった。
挙句の果てには、睡眠を取ろうとした時に、雄一郎さんの話が頭をちらつき、満足に眠ることができなかったのだ。
こう思い返してみると……。
実に苦しく、非道い。
自分の行動を振り返ってみると、一周回って面白くなってくる。
しかし睡眠時間と質の低下は良くない。
雄一郎さんに睡眠は大事だと言った手前、自分の行動を思い返してみると、何も言えなくなってしまうからである。
しかし、そんな事を繰り返していたからなのだろうか。
集合場所である駅で雄一郎さんが私の顔を見た瞬間
「寝なさい」と珍しい命令口調で話しかけてきたのである。
そう。
雄一郎さんは私の顔色を見た瞬間、目を見開いて、驚くほど速足で私の前に来てそう言ったのだ。
挨拶の言葉もなかった。
この時の私は、どんな非道い顔をしていたのだろうか。
後から雄一郎さんに聞いても、応えてくれなかったので、余程、非道い顔をしていたのだろう。
なにせ雄一郎さんが挨拶をしなかったのだ。
想像も出来ない顔だったのだろう。
そして、雄一郎さんは
「思い出話は、次の機会にしましょう」
という残酷な言葉を命令口調で私に言ってきたのである。
そして私は、意識を失った。
もう一度、目を開けて時に入ってきた光景は
「綺麗な青空」だった。
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