夢無にて
人生で初めての経験や体験をする時。
人は、どのような感想を述べるのだろうか。
私は今日の事を、一生忘れないだろう。
それ程までに、雄一郎さんの言葉は強烈だったのだ。
「あれは、僕が特に行き先も決めず、春の花々の観察しながら、山を歩いていた時の事です」
「は?」
……直感を信じて、子供が、山を?
それ、遭難しないか?
「ええ。そんな事をしていたからでしょうね。どれ程歩いたのか解りませんが、見知らぬ場所まで来てしまいまして」
「……そっか」
ああ。
やっぱり。
絶句。
もはや驚いて言葉にならないとは、この事だろう。
いや。
ほとんどの思考を巡らせて返答が雑になっていた私に、こんな事を言う立場はないが……。
改めて言おう。
絶句である。
もはや、その一言に尽きる。
そして私は、雄一郎さんに少年のような冒険心があったのかという驚きと……。
子供特有の好奇心による後先考えぬ行動力対する恐怖で……。
数秒間、思考を止めた。
しかし、山での迷子は命に関わるだろう。
だから私は、特に言葉を選ぶ事もせず
「そんな馬鹿みたいな事をしておいて、よく無事だったね」
と、こう言ったのだ。
……そして、これが。
現状、私に出来る精一杯の返答だったのである。
口調は荒く、態度も悪いが、仕方ない。
なにせ雄一郎さんは、私の言葉など気にも留めず
「ええ。本当におっしゃる通りで。ですから、いつものお叱りの比ではない程には、怒られるだろうと覚悟は決めていました」
と、平然とこのような事を言ったのだ。
「……そっか」
他に心配する事があるだろう、とは言えなかった。
「はい。ですが、このまま山道に留まるわけにもいかないでしょう?ですから、まずは開けた場所に出ようと、足を進めまして……」
すると雄一郎さんが、不意に言葉を止めた。
「その時でした。それは、それは、美しい白い洋館が姿を見せましてね」
ああ。
雄一郎さんはその洋館の姿が、今、私の目の前にあるかのように話す。
いや、私の事は見えていないのかもしれない。
先程までの話は、全て空に投げたらしい。
「まるで、その場所だけここではない。どこか異国の地なのではないか、と思わせる雰囲気さえありました」
その姿を、思い出しているのだろう。
雄一郎さんは、今まで見たこともない程に楽しげに、目を子供のように輝かせ……。
口数は多く早口になりながらも、その洋館について話すのである。
「その洋館は実に見事でした。息を吞む程に美しいという言葉を、貴方もご存じでしょう?」
「知ってるよ」
良く、国語の授業で出て来た言葉だ。
恐らく国語の教員も、その表現が好きだったのだろう。
「そうでしょう。ああ。何が言いたいのかと言いますと」
「うん」
いつも冷静沈着な雄一郎さんが早口になる程には、素晴らしかっただろう?
「あの言葉が、この洋館を表すためだけに生まれたのだと思った程に、美しかったという事です」
「そう、なんだ」
なるほど、さらに上だったか。
私は、雄一郎さんの言葉に圧倒されてしまった。
どうやら、その洋館には建築美という言葉が相応しいらしい。
今まで雄一郎さんが、ここまで饒舌になった事がないのが良い証明である。
聞いている私まで楽しくなる程であった。
無論どんな話でも楽しいのだが、それは野暮という物だろう。
そんな事を考えていたら、上機嫌な雄一郎さんは、更なる言葉の雨を降らせた。
「実は僕、それまで実物の洋館を見た事がなくて、しかし学校の友人の本にあった洋館についての説明文は覚えていたして」
「……ああ」
まあ。
昔なら、あり得る話だろう。
「ええ。けれど、こんなところに洋館があるとは、信じられず。最初は幻覚ではないかと思いましたよ」
「え?なんで?」
幻覚を疑う程の、現実離れした洋館だったのか?
確かに、雄一郎さんの言葉の通りなら納得だが……。
「なぜって、山で遭難した先で見つけた先の美しい建物ですよ?」
「……あ、そっか」
「まるで、おとぎ話に出てくる桃源郷のようでしょう?」
理解した。
確かに、雄一郎さんが楽しそうに話しているから忘れかけていたが……。
当時の彼は、山で遭難中なのだ。
それならば、この洋館が現実なのか、それとも、幻想の類なのか。
その判断すら危うくなっていても可笑しくない。
けれど、そんな事は些事であるかのように雄一郎さんは話を続ける。
決して些事ではないと思うが、というか些事にしないでほしいが、雄一郎さんは興味をそそられなかったらしい。
「それで、ですね。その洋館はまるで、純白な祝服を着ているように美しかったのですよ」
まだ雄一郎さんは、続く。
まるで、言葉を巧みに操り人を楽しませる講釈師のようだった。
「それだけではありません。その美しい姿に装飾を施すかのように、紅の薔薇が絡まっていましてね」
それにしても……。
雄一郎さんは、詩人なんじゃないだろうか。
そうでなければ、こんなに素晴らしいほどの表現を……。
口から二酸化炭素を吐き出すが如く話す事は出来ないだろう。
そんな事を思う程に、私の頭は雄一郎さんの言葉に圧倒されてしまったのである。
「その姿は、なにかの生き物に覆われているかのようでした」
そして、雄一郎さんは少し考えるような素振りを見せて、こう続けた。
「そうですね。例えば、肉食動物が草食動物を食べる時のような、言い方が悪いかもしれませんがね」
……凄い。
凄い例えだ。
つまり、雄一郎さんは。
その洋館が、獅子のような鋭い牙を持った蛇が、鼠のような素早い足をしている蛙を狩っている様子を表現していると?
だが、雄一郎さんの口は、私の感動を置いて、止まらない。
「けれど、とても似ていると思うのですよ。まるで食物連鎖の生き写しのような、そんな雰囲気が、あの洋館にはありました」
「そう、なんだ」
どんな洋館だ、それは……。
「ええ。血液のように赤い、不気味で、けれども、美しい薔薇が洋館を囲むかのように咲いていましたから」
「……なるほどね。赤い薔薇が肉食獣で、白い洋館が草食動物か」
それなら、世界の洋館巡りをする時には気を付けた方が良いだろう。
あれは、建築士たちの威信を賭けた戦場なのである。
「ええ。しかし昔の僕は、想像力が豊かでしたね」
「え、何で?」
「なにせ、僕はその姿があまりにも綺麗でしたから、その洋館の住人は少女の血を啜る高貴なお方だと考えていたのですよ」
そう言って、雄一郎さんは笑っていたが、私は笑えなかった。
なにせ、その言葉が示す人物は……。
いや。
態々、言葉にする事もないだろう。
だが、そこまで言われて、その洋館を見ようとしないのは男が廃る。
そう。
気になる物は、どんな手段を使ってでも見ようとするのが、人の性なのだ。
古来より、人は欲深いものとして知られているのだから、これは仕方がない事だろう。
神話の世界からのお約束である。
そんな現実逃避じみた事を頭の中で思いながら、話を聞いていた時だった。
「それで、そのまま立ち尽くしていても仕方がないと思いまして、洋館の扉を開けてみる事にしたんです」
雄一郎さんはそう言って、笑った。
その姿はまるで、自分の巣穴に食材を招きいれる蜘蛛のように、妖艶だった。
お読みくださり、ありがとうございます。
それでは、続編をお楽しみください。




