教訓にて
他者の助言は聞くべきである。
少なからず、他者の助言を必要としていないと考えている内は……。
私は雄一郎さんの言葉から、その事を学んだ。
なにせ雄一郎さんが、天からのお告げを教えるように
「美味しければ、何でも良い。貴方にはこれが普通なのでしょう。ですが、これを普通だと思っては受けませんよ」
と言ったのである。
「え?」
そしてこの考えは、過去の私では考えもしなかった事なのだ。
「それは、傲慢です。世間には食料がなくて困っている人がいるのですから」
今でも、覚えている。
あの時の雄一郎さんの言葉は、印象的だった。
「そうですね。貴方が好きな遊戯で例えてみましょうか」
「あ、え?」
そう。
思考が追いつけなかった事も、覚えている。
「今しがた貴方が言った食事に対する考え方は、面白ければ遊戯の物語に意味はないと言っているという事と同じです」
「え。それは、非道いな」
過去の私は、確か、そう言った筈だ。
思考の廻らない頭で、そう言った筈だ。
今、思い出しても、酷い。
情状酌量の余地もない。
満場一致で、有罪判決である。
「人は、感動を得るために生きている」
誰かが言った、有名な言葉だった。
しかし今になって思い出すと、笑えてくる。
過去の私の行動が、その言葉の真逆の状態であると、思い知ったからである。
これには、笑う事しか出来ない。
なにせ私は常日頃、感動できない遊戯で遊ぶ事は、時間の浪費に他ならず、無価値であると考えているのだ。
そして同時に私は、時間の浪費をするだけなら、新しい考え方を知る旅にでも出た方が良いという考えも持っている。
それを解っているから雄一郎さんは、その例えをだしたのだろう。
とても、恥ずかしい。
こんな事を考えていながら、本質的には私も後者側の人間だったのである。
何という恥知らずなのだろう。
過去の私も、この言葉を聞いた時項垂れていた筈だ。
物語に、泣き、怒り、悲しみ、笑う。
心が動かされる遊戯をする事が、その遊戯の醍醐味であり、製作者に対する敬意であった筈なのだ。
それなのに私は、敬意を払っていなかったのである。
なんたる、所業か。
大罪である。
敬意と品位に欠けるのは、人として、大罪なのだ。
だから過去の私は、このお店と友人に深く感謝をするべきなのである。
こんな単純な事にも気付かなかった私に、更生の機会を与えてくれたのだから。
すると、昔の自分の出来事を回想していた私に向かって、雄一郎が
「けれど、不思議ですね。昔の貴方は、どうして、あのような考え方をしていたのでしょう?」
と言ってきた。
……え。
気になるの?
別に言っても良いが、一つだけ怖いのが。
「えっと。何を言っても怒らない?」
怒られる、という事だ。
怒られるのは嫌だ。
なにせ、今まで歩んでいた灯りの灯っていた道が、一瞬で暗闇に包まれたるような感覚になるのである。
すると、雄一郎さんは笑いながら
「おや。こんな事で怒る筈ないでしょう」
と言ったのだ。
だから私は、安心して
「多分、食事に、優先順位を感じる事がなかったんだよ」
と、過去の失態を思い出しながら、告げたのである。
だが、これは何とも苦い返答だ。
事実であるのが、一等酷い。
けれども、昔の私の考え方からすると、自然の摂理のような事だった。
なにせ昔の私の物事の感じ方は、随分と変わっていたのである。
例えば、この世界には様々な種類の飲み物があるだろう。
珈琲、お茶、果物飲料、酒、等々。数え出したら、切りがない程存在する筈だ。
そして種類だけでも多いというのに、ここから緑茶、抹茶、日本酒、葡萄酒等の分類されるのである。
そこで過去の私は腹に入ってしまえば、全て同じという結論に至ったのだ。
そのため、食事に意味を見いださず、そこまで興味が湧かなったのだろう。
なにせ、結果が同じものに対して、興味は湧かないのである。
これが美味しければなんでも良いという認識をしていた理由だ。
酒は論外である。
私は、法律を守る人間なのだ。
未成年飲酒はしていない。
そして、この考えを持っていたから、動物番組で鼬がご飯を食べている場面を見ても、特に何も思わなくったのである。
いや。
唯一、可愛い顔をしながら案外、獰猛なのだな、という感想が浮かんだが、それはそれ。
論外だ。
他に何か思え、過去の自分。
いや。
まず、自己を顧みて反省する時間を、増やした方が良いのだろうか。
「そう考えると貴方に会った時の私は、随分と酷い物だったね」
「ええ。先程言ったように、実に酷い物でしたよ。世間の厳しさを知らない子供でしたから」
即答だった。
一切迷う素振りを見せない、完璧な即答だった。
少し、かなり傷つく。
だが、やはり私は、このお店に感謝するべきだ。
私の認識を悉く壊してくれたのだから、理由は十分である。
だが、こうして考えてみると、過去の私は随分ともったいない事をしていた。
そういえば、何年か前に知り合いが、新茶と緑茶の違いについて、淡々と説明をしてきた事があった。
その説明の仕方は、熟練の大学講師を連想させるものがあった。
だが、その時の私は、この喫茶店に来る前だったために、その話興味がなかったのである。
話の内容を殆ど思えていないのが、良い証拠だ。
微かに残る記憶の中に、新茶の方が成分が豊富言っていた事は記憶している。
だが、詳しくは思えていない。興味がないと一切、覚えようとしないのである。
だが、結果は覚えている。
なにせ「美味しければ良いのだろう」という私と「味覚の問題ではない」という知り合いが、頭を悩ませて終わった筈なのだ。
こうして、思い返してみると、実に、酷い話である。
何故そのような話になったのか、そのきっかけも思い出すこともできないが、恐らく、しょうもない事がきっかけなのだろう。
だが私は、この話が認識の話と一緒なのだという事に気が付いたのである。
あの時の知り合いには悪い事をしてしまった。これは、私が十割悪い。
そんな私の頭に、とある名案が浮かんだ。
それは、市販品を買ってきて家でその違いを体感しよう、というものである。
悪くない考えだろう。
自業自得の産物にしては、悪くない。
そう、決意をした時だった。
雄一郎さんが、突然
「今日は、ここまでにして帰りましょうか」
と言ったのである。
私が、何のために紅茶を注文したのか、一切理解せずに。
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