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想い出  作者: 彼岸  章華


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13/20

くろにて

 私の意識が起きた時。


 私は、今までの記憶がない事に気が付いた。


 正確には、駅で雄一郎さんに出会った時から、起床するまでの記憶がなかった。


 それ以外の記憶はある。


 雄一郎さんに出会った時の事や、私が人間不信に陥っていた事、忘れておきたかった恥ずかしい事も、忘れられずに覚えている。


 では、なぜ。

 ここに来るまでの記憶がないのだろうか。


 これは、本当に夢なのだろうか。


 夢ならば、なぜここまで正常に意識を保てるのだろうか。


 これは、()()なのだろうか。


 そこまで考えて私は、雄一郎さんがこの場所にいない事に、気が付いた。


 そして、疑問の渦と孤独感の波に思考が止まりかけた。


 ああ。雄一郎さんは、一体どこに行ってしまったのだろう。


 まさか、自己管理もできない私に愛想を尽かして、そのまま家に帰ってしまったのだろうか。


 あり得ない話ではない。

 それだけの失態は既にしている。


 そして私は、さながら

「実家に帰ります、探さないでください」

という書置きを見つけて、途端に焦りだす意地汚い大人のような心地で辺りを見回した。


「夫婦関係の亀裂は、浅いと思っていても、深いんだよ。周りが思っているよりも、ずっと深いんだ。世界最深(マリアナ)海溝みたいにね」


 そう言った知り合いの哀愁漂う表情を、思い出した。


 このままでは、拙い。

 何がとは言わないが、まずい。


 とにかく、()()()()()()


 そして、気付いた。

 私の体は、微塵も身体が動かなかったのだ。


 疲労感は、綺麗さっぱり無くなっていたのに、身体だけが動かないのである。


 まるで、四肢が鎖で拘束されているかのようだった。


 なぜだ。


 だが私は諦めず、身体が動かないのかも解らず、もう一度身体を動かそうとしたのだ。


 その瞬間だった。


 私は、全身に走る痛みで、危うく意識が飛びそうになった。


 今まで夢を見ていて、痛みを感じた事などなかったのに、なぜか痛みを感じた。


 頭が。手が。腕が。足が。


 痛いのである。


 そして、私は痛みを感じている中で、ある疑問が湧いた。


 それは、なぜ夢の中で痛みを感じるのだろうか、という疑問だった。


 そして、思った。


 やはり、ここは、現実なのか。

 しかし、この場所は、夢だろう。



 なぜなら、視えている景色が夕暮れだからである。


 昼が、一瞬で夕方になるのは、間違いなく、可笑しいのだ。


 そして、夕方とは言えども、無音はあり得ない。


 虫の音や生活音の一つはする筈だからである。


 どうなっているのだろう。

 夢と現実が混じっているのだろうか?


 そんな馬鹿げたことがある筈もない。


 けれど、現状について、考えれば考える程、可笑しい事が増えていく。


 もし、ここが現実であるのであれば、静寂に包まれている現状が、可笑しいという事になる。


 そして、ここが夢であるのであれば、痛みを感じている現状が、可笑しいという事になる。


 両方、可笑しいのだ。

 頭が混乱して、何もかもが可笑しく思えた。


 その瞬間だった。


 ()()()


 それは、天啓を授かる聖人のようなものだった。


 私は、自分の事を決して、聖人のような性格をしていないと自負している。


 そして、私は無神論者である。


 しかしこの時の事だけは、そう言い表すのが適格だと思ったのだ。


 そして、驚くべきことに、頭にその言葉が響いた瞬間に今まで感じていた、肉を抉られるような痛みが収まったのだ。


 信仰は、このように成り立っているのだな、と身に染みて、学んだ瞬間だった。


 そして、忘れてはいけない。


 これは、全て夢の中での出来事なのだ。


 だから、無神論者が突然、神の思し召しについて話し出しても、許されるのだ。


 多分。


 そんな事を考えている内に、ある事に気が付いた。


 今まで満足に動かすことのできなかった身体が、少しだけ動かせるようになっていたのである。


 動くようになったのは、首だけだったが、それでも、現状を理解するためには役に立つ事に違いなかった。


 動くようになった理由は解らないが、幸運である事に、変わりはないだろう。


 そう。

 この時の私は、呑気にそんなことを考えていたのだ。


 そうして、私は首を左右に動かし、この場所に何があるのか見た。


 私が、()()を見てしまった瞬間だった。


 それは、長身の男だった。


 高級そうな黒い着物に身を包み、生きているのが不思議な程に瘦せこけた細身の男だった。


 朱色の帯と、足下にあしらわれていた金糸の桜の模様が、やけに目についたが、それ以上に、その雰囲気に圧倒された。


 そう。

 その男は、この場所には不釣り合いだと感じさせる程に、不思議な存在感を持っていたのである。


 その雰囲気は、圧倒的な捕食者のようなものだった。


 目を逸らそうにも、逸らすことが出来なかった。


 自分の意志で、身体を動かすことが出来なかったのである。


 まるで雄一郎さんと話している時の様だった。


 そして私の()は、男の顔を見た。


 その瞬間、私は、見てはいけない物を見てしまった感覚に包まれ、言葉を失った。


 顔が()()()()


 目が。鼻が。口が。瞼が。眉毛が。


 その男には、なかったのである。


 正確に言えば、その男の顔が、墨汁で塗りつぶされたかのように、真っ黒で顔を見ることができなかったという方が正しいだろう。


 そして私の目は、その男から視線を逸らせなかった。


 金糸の桜に見惚れていた訳ではない。

 着物姿の男が珍しかったという訳でもない。


 いや。

 珍しくはあったが、それ以上に私の心にはその男から目を逸らしてはいけない、という使命感があったのだ。


 怖いのに、目を逸らしたいのに、その使命感が邪魔をした。


 なぜ。

 こんな使命感を感じているのだろうか。そう思った瞬間だった。


 私の心臓は、動きをとめた。


 男と、()()()()()のだ。


 なぜか、顔がないのに不思議とそう思った。


 そう思った時には、遅かった。


 私は毛穴という毛穴から、汗が吹き出し、呼吸は荒れ、歯が震え、身体が凍った。


 (こわ)い、(こわ)い。(こわ)い。(こわ)い、(こわ)い。


 一瞬で、思考を恐怖一色に塗り替えられたのである。


 今まで感じていた使命感など、(ゴミ)同然だった。


 瞬間的に、私の(理性)は、その男から逃げ去ろうと、動かぬ身体を我武者羅に動かした。


 実際には、全く動いていなかったが、それでも動かそうと努力した。


 そうしている内に、気が付いた。


 男が何もせず、こちらを、私を、()()()()()()だけなのだ、と。


 そう。

 襲いかかってくる訳でもなく、話しかけてくる訳でもない。


 ただ、見つめられているだけなのだ。


 だが、その行動が、私を恐怖の底に突き落とした。


 襲いかかってくるのであれば、体が動けばどうにでもなる。


 話しかけてくるのであれば、言葉が通じれば対話ができる。


 しかし、何もしてこないのであれば、対処の仕様が解らない。


 解らないから、恐い。


 しかし、改めて考えてみると、この時の私の頭は、冴えていた。


 今までの人生の中で、五本指に入るくらいには、冴えていた。


 相手は動かないのだから、観察ができる事に気が付いたのだ。


 そして、相手の行動をよく見れば、この状況を打破できるかもしれない。そう思ったのだ。


 そして私は、その可能性に賭けた。


 賭ける事しかできなかったとも言えるが、それでも、その賭けが、灯台の明かりになった事は事実だった。


 そう。

 私は数分、沈黙と抗う事になったが、それ以上に価値のある収穫を手に入れたのである。


 その収穫とは、彼に私を害する意思はないという事実だった。


 そう。

 彼は私の事を見てくるが、近づいては来なかったのだ。


 そして、その黒い顔をこちらに向け、何かを無言で訴えてきていたのである。


 表情の見えない顔では、何を訴えているのか解らなかったが、それが重要な事なのだという事は察しがついた。


 怖い事には変わりはなかったが、それよりも、何を訴えてきているのかの方が気になった。


 すると、その男は突然、右腕を挙げて、私の方を指さしたのだ。


 今まで、身動き一つしなかった相手が、突然動いたのだ。


 嘴広鸛(ハシビロコウ)がご飯を丸呑みした時と同じような衝撃が、私に走った瞬間である。


 そしてその行動は、的確に私の思考を阻み、興味を引いた。


 そのような動きをされてしまっては、その方向に何があるのか気になってしまう。


 これは、自然の道理だろう。

 決して私の知的好奇心のせいではない。


 誰だって子供の頃には一度は経験したことがある筈だ。


「あ、宇宙人がいる」

と言われて、振り向かなかった者はいないだろう。


 それが真実。

 年齢が違うだけで、誤差なのである。


 だから、私は心のままに、その男が示す指の先に視線を向けた。


 そして、その瞬間、私はである()()()()()()を見た。


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