洋館にて
奇妙、奇怪、奇抜。
これは、人に向ける言葉なのだろうか。
ああ。
それは私の言葉が、雄一郎さんに届いた時の事だった。
「ええ。彼ほど愉快な人とは、今まで出会った事がありません。ですから、貴方の言っている事は、正しいです」
いや。
届いていなかったかもしれない。
本当に、伝わったのか?
先程の私の大切な人の発言から、随分とずれている気が……。
「え?それは、褒めてるの?」
ああ。
だから今度は、私が雄一郎さんの言葉に驚く番だったのだ。
そして同時に、愉快な人とは一体どのような人なのだろう、と不思議に思ったのである。
いや。
確かに、人によって快、不快の判断は異なる。
学校の窓ガラスを叩き割る行為に快感を覚える人もいれば、動植物との触れ合いに快感を覚える人もいるのだから、当然だ。
ちなみに、私は後者である。
いや、待てよ。
ひょっとしたらその人は、一切理解できない奇行に走る人なのかもしれない。
だが、それはこの際考えない事にする。
なにせ大事な事は、この快、不快の境界線は、他者には一見すると解らないという事なのだ。
それに雄一郎さんは、その人の事を愉快だ、と言ったのである。
ならば、私の予想を悠々と超えてくる人ような事を指すのだろう。
私には、想像が出来ない程に破天荒な人に違いない。
すると、そんな事を悶々と思考を巡らせていた私に、雄一郎さんは楽しそうに
「おやおや。どのような事を考えているのか、僕には解りませんが、一つだけ、言える事がありますよ」
と、こう告げたのである。
「本当に?それは、一体、何かな?」
本当に、何?
「それは、彼にとって愉快という言葉は、彼の行動を的確に指し示し、尚且つ、彼への最大級の誉め言葉であるという事です」
「へえ、それはまた。随分と、独特な誉め言葉だね」
ああ。
そして私の中で、誉め言葉の定義が壊れそうになった瞬間でもあった。
「ええ。慣れていなければ、そのように感じるかもしれませんね」
「そうだね。大混乱だよ」
思考は、大渋滞である。
「おや。しかし、これは紛れもない事実なのですよ」
「どんな人なの。その人」
「そうですね。彼の態度は初対面の時から、愉快で、非道いものでしたね」
「褒めてないよね?それ」
それは、貶しているだろう。
「褒めてますよ。なにせ彼は、僕が今までに出会った事のない性格の人でしたし」
「そうなの?」
なるほど。
不思議な人、という訳か。
「ええ。ですから余計に彼の行動が可笑しく思えまして。いや。それを抜きにしても、非道いものでしたね」
「へえ。貴方がそこまで言うなんて、珍しい事もあったものだね」
雄一郎さんは、初対面の時を思い出しているのだろう。若干、額の皺が険しく、饒舌になっている。
それにしても、いつも温厚な雄一郎さんが、このような反応をするなんて。
どれだけ、特徴的な初対面だったのだろうか。
しかも雄一郎さんが、他者の悪口を言ったのだ。その事実だけでも、珍しい。
例えるならば、深海に珊瑚礁があるような驚きだ。
まさか、初対面で喧嘩でも吹っ掛けられたのだろうか、それとも、罵詈雑言の嵐でも浴びせてきたのだろうか。
他人事だからこそ、妄想に花開くというもの。
私はこの瞬間だけ、自分の貧相な想像力に感謝した。
願わくば、この想像力が学校の文章作成でも活きてほしい、切実に……。
だがそんな私の困惑と興奮が入り混じる思考には目もくれず、雄一郎さん苛立たしそうに、こう言ったのである。
「本当に、非道かったですよ。なにせ、初対面の僕に向かって不審者と大声で叫びながら、一本背負いをしてきたのですから」
「は?」
「ええ。清々しいくらいに、綺麗な青空でしたね。まったく、今やられたら二週間ほど寝込む自信があります」
「え。聞き間違いかな。一本背負いって聞こえたけど」
「いいえ、聞き間違いではないですよ。一本背負いと言いましたので」
「そっか。いや、そっか」
聞き間違いで、あってほしかった。
いや。これは素晴らしい防衛本能と判断能力が備わっている、と賞賛すべきなのだろうか。
だが、この行動には賞賛の声よりも、非難の声の方が大きい筈だ。
確かに、これは、非道い。
いや。
確かに雄一郎さんは、不法侵入をしている不審者ではある。
だが、その撃退方法はあまりにも暴力的すぎる。
打ち所が悪ければ、もっと悲惨なことになっていたかもしれないのだ。
そう思い至った瞬間、身体が震えた。
だが、これが若気の至りという奴なのだろうか?
私の過去のやらかしが、塵に等しくなる程には、やんちゃである。
もう少し、平和的に解決してほしかった。
しかし、これは私が、あれやこれやと言う事ではないだろう。
だが、これで苦い顔の理由が解った。解りたくなかったが、解ってしまった。
だが、この時の雄一郎さんの表情は私とは対極的に、楽し気な顔に変わっていたのだ。
まさか、新たな扉を開いてしまったのだろうか。
思わず、そんな邪推までしてしまった程である。
後になって、その邪推が杞憂だと解って心のどこかで安心した事は、墓場までの秘密である。
だが、どこにそんな楽し気になる要素があるのだろうか。
その理由が一切解らない私は、首を傾げる事しか出来ない。
すると。そんな私を放置して、雄一郎さんは話を続けたのだ。
「いや。あの時は、驚きましたよ。気が付いたら、寝具で横になっていましたからね」
「は?」
「いや。僕もまさか、一本背負いで気絶するとは、夢にも思っていなかったですよ」
「は?」
「しかも、一本背負いをした本人が不法侵入する方が悪いなんて正論を言うものですから、苛つきましてね。正拳突きを食らわしてあげましたよ」
「は?」
一体、何を言って?
しかも、正拳突き?
これは、空耳だろうか。
空耳であってほしい。
「正拳突きですよ。これこそ若気の至りですね」
空耳じゃなかった。
「その後、彼と一緒に暮らしているというご老人が来まして、僕の現状を説明してくれまして」
「えっと、それで?」
「なので僕はとりあえず、家に帰りたいと言いましたよ」
「そう、なんだ」
雄一郎さんは、何というか、凄いな。
精神力とか、色々、凄いな……。
「すると彼が、暇な時に会いに来る事を条件に、ご老人と共に家まで道案内をしてくれましてね」
「えっと。それはまた随分と、何と言えば良いか」
この温厚な雄一郎さんでも手が出ることがあるのかという驚き、一緒に暮らしていたご老人が優しい人で良かったな、という安堵。
それらの感情が、色々な情報と合わさって、波に乗りながら、一瞬で押し寄せてきたのである。
私は、自分の感情を正確に伝えられる言葉が思いつく事が出来なかった。
そんな私とは裏腹に、雄一郎さんは正拳突きの件からは、笑いながら話しているのだ。
だが、これでさっきの上機嫌な態度の理由も、解った。
しかしこの時、私の心には雄一郎さんとは反対の感情が心を渦巻いていたのである。
この感情の名は、困惑だ。
なにせ、雄一郎さんは人に正拳突きをするような人に見えないのだ。
「おやおや。貴方の気持ちも解ります。反応に困りますよね」
ごもっともである。
「ですが、そのおかげで今でも仲の良い友人になっているのですよ」
なぜ?
え、幻聴?
「河原で拳と拳をぶつけ合って、友人になるような漫画があるでしょう。あれと同じです」
幻聴では、なかったようである。
なにせ、何も変わった事のない、これが普通であると言うように、雄一郎さんが言ったからだ。
ああ。
その姿は、子供に常識を教える親のようだった。
「いや。可笑しいだろう。漫画の出来事を現実でやっている人、中々いないよ。私だって、初めて見たんだ」
それは、漫画だから通用する手段ではなかったのか。
「確かに、僕もあまり聞きませんね」
ほら。
珍しいだろう?
「しかし、最初の関係値が最悪だと、逆に仲違いをした時に気持ちが楽ですよ。あの最悪な状態にはなっていないと、安心出来る」
いや、待ってくれ。
仲違いを前提に話を進めないでほしいのだが。
第一
「その安心は、もっと別のところにあってほしいかな」
そう、これだ。
主に、河原で殴り合わないような安心がほしい。
私は対人関係には苦労をしてきたが、雄一郎さんが経験したような苦労は、今まで経験してこなかったのである。
「まあ、確かに、それが一番でしょうね。しかし、そのようなことはありましたが、無事、家には帰れたのですよ」
「それは、おめでとう?」
「そう思うでしょう?」
その言葉から察するに、何かあったのか?
「家に帰った瞬間に、母が凄まじい形相で詰め寄ってきたのです。驚きましたね」
何か、あったらしい。
一体、何があったのだろうか。
「そっか。何か、変わった事でも起こってたの?」
そう。
私は、少し不安になりながら、聞いた。
「ええ。ありましたよ。どうやら、僕は三日間行方不明になっていたそうなのです」
「え?」
行方、不明?
「一本背負いを受けて気絶した後、三日間も寝込んでいたのですよ」
「あれ、ご老人には、聞いていなかったのかい?」
考えるよりも早く、疑問が口から出た。
「ええ。不思議な事に、ご老人は何も言わず、僕もその事については何も思わなかったのですよ」
「何も?」
「ええ。何も思わなかったのです」
「不思議だね」
ご老人も、貴方の状態も、不思議なのだ。
「今思えば、そうでしょうね」
「そうだね」
「しかし、あの時の僕は、初対面で一本背負いをしたような人が、居心地の悪そうにしていた理由が、別ったものですからね」
「疑問に、思わなかったのか。今の貴方の姿からは、想像もできないな」
なにせ私は、雄一郎さんの事を疑問があったら、相手の事など一切考えずに行動する人だろうと思っていたからである。
「ええ。今の姿を知っている貴方からしたら、思いもよらない事でしょうね」
「そうだね」
もし、今その状態になってしまえば、私は迷わず熱を疑うだろう。
それくらい、あり得ない事なのだ。
「そうでしょうね。ですがそう考えると、彼も大層驚いたでしょうね。不審者に一本背負いしたら、三日間も気絶したんですから」
「それは、そうだね」
それ以前にも、驚く事があるだろう。
「ええ。もし僕だったら、恐怖のあまり、泣きだしています」
「安心して。私も泣くから」
いや、多分私以外にも泣く人はいる。
「それは何よりです。さて、これが僕と彼の初対面の思い出ですよ。どうです?」
「どうって?」
「劇的な場面でしょう?」
「ああ、そうだね。ここまで反応に困るような初対面には、私は出会った事がない」
劇的な場面と言うのか、危険な場面と言うのか。
一から百まで劇的な場面である事には間違いないが、余りにも衝撃が大きすぎて自分の中で整理が付かないのである。
愉快なのか、危ういのか、何なのか。
その言葉が、心に刻まれた瞬間だ。
しかし、どうやったら、一本背負いを受けて気絶するのだろう。
やはり打ち所が悪かったのではないか、病院には行ったのか。
どのような関係で、今までの交友関係を維持してきたのか。
様々な疑問が押し寄せては、言葉に出来ずに消えていく。
人生は小説より奇なり、という言葉が本当なのだと、このような場面で知りたくなかった。
先程の洋館の話の方がまだ、安全安心だったのだと気が付いた。
肉体的な意味でも、精神的な意味でも誰も傷ついていないのである。
だが、そのような感想を抱くと同時に、私は、思った。
これこそが若気の至りなのだ、と。
この意味の解らない思い付きをすると同時に、私は店員に、もう一杯紅茶を頼む事にした。
恐らく、このような興味本位が擽られる、刺激的話をこれからずっと聞く事になるのだ。
だから次に備えられるように、万全の準備を整えなければならないのである。
なにせ私はこれから、この驚き以上の話題を、雄一郎さんから聞く事になるのだ。
そう思った。
だから紅茶の種類も、今まで飲んでいた品種から違う種類に変えた。
物理的な意味は一切無いが、精神的な問題である。
だが私は、この状態でも高鳴る自分の知的好奇心を、再度、大きく感謝したのだ。
なにせ、この知的好奇心がなければ、このような面白い話を聞く事ができなかったのである。
精神的な意味では、とても健康に悪いのだろうが、そのような事は今となっては、関係ない。
人類の夢の食事も体に悪いが美味だろう、それと一緒だ、などと誰に聞かせるのか疑問になるような事を、心の中で呟いた。
そして残り少なくなったの紅茶を、勢いよく飲み干した。
序章 ー完ー
お読みくださり、ありがとうございます
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