序章 大罪の人魚
―――――…ピチョン…ピチョン……
天井から染みでた雫がぽたり、ぽたりと墨汁のように暗く濁った水溜りに滴り落ちる音が、肌に纏わりつくような、ジメジメと重く湿った空気と、硫黄に似た息が詰まるような悪臭で満たされた、暗く冷たい地下牢の中に響き渡る。
唯一の光源は、檻の外の壁に立て掛けられた松明の、今にも消えてしまいそうな、弱々しい灯火のみ。
その淡い光が、濁った水たまりの張った檻の隅で、捨てられた仔犬のように踞っている、小さな影を照らし出した。
その正体は、六〜七歳程の、幼い少女だった。
しかし、少女は人間ではなかった。
乱れた髪の間から覗いていたのは、透き通った、魚の鰭の形をした両耳。
何より目を引くのは、少女の腰から下…本来であれば、脚がある筈の部位だ。
少女は両脚の代わりに、白い鱗に覆われた、イルカのようにしなやかな魚の尾を生やしていた。
――――――人魚。
少女の容姿を見れば、誰もが恐ろしくも美しい、古くから海に伝わる神秘の存在を思い浮かべるだろう。
しかし、少女の出で立ちは、人魚の麗しいイメージとは、大きくかけ離れた、惨憺極まるのものだった。
本来は白かった髪は、あちこちが跳ねて乱れ、細かい塵やゴミが絡んで、泥と埃で汚れ、鼠のようにくすんだ色に染まってしまっている。
やせ細った小さな身体が纏っているのは、到底服とは呼べない、使い古された雑巾のような汚いボロ布一枚だけ。
長い髪の隙間から覗く、澄んだ水を想わせる、美しく澄んだ蒼の瞳は、光を失って濁り、曇りガラスのように虚ろで、何も写してはいない。
その下の目尻は、何度もこすって赤く腫れ上がり、見ているだけで痛々しい。
枯れた小枝のように細い両腕には、紫色の痣や擦り傷が、痛々しく刻まれ、白い鱗は所々欠けたり、剥げて血が滲み、明らかに他者の悪意を感じられた。
今にも折れてしまいそうな両手首には、不釣り合いな、太く無骨な枷が嵌められ、見るだけで重く痛々しい。
枷の下に出来た擦り傷から、滲み出た血液が、赤黒く固まってこびりついている。
磨りガラスのように曇った瞳は、怯えの色に染まり、鉄格子の向こうから、微かな物音が聞こえるたび、痩せ細った小さな肩を震わせる。
それを見れば、この牢で少女がどれだけ惨い仕打ちを受けてきたか、想像に難くない。
檻の向こうから汚物を見るような嫌悪と蔑みに満ちた目。
恐怖と痛みに満ち溢れた、終わりのない地獄の日々が、少女の全てだった。
少女には、名前がなかった。
父の顔も母の顔も、何一つ覚えていない。
――――お前の親は死んだ。
お前が殺したのだと、物心がついた時から、この牢の中でそう訊かされてきた。
赤子だった自分が起こした災いが、多くの一族の生命を奪い、両親もそれに巻き込まれたのだと。
信じられなくて…信じたくなくて、何度何度も、泣きながら、声が枯れるまで母を呼んだ。父を呼んだ。
だが、両親は来てくれなかった。
その現実が、大人達の放った言葉が事実だと、残酷な程真っ直ぐに、少女に突きつけられた。
呪われた忌み子。
災厄を呼ぶ悪魔。
穢らわしい罪者。
お前など、生まれてこなければ良かった。
刃物のような暴言と共に、毎日繰り返される、罰という名の激しい暴力。
少女は必死に痛みに耐えながら、泣いて蹲り、謝罪を繰り返すしか無かった。
しかし、どんなに許しを乞うても、それが聞き入れられることはなく、寧ろ痛みが増すだけだった。
大人達は、慈悲も容赦も無く、罵り痛めつけ、終わりのない苦痛は、いつしか、少女の声さえ奪っていった。
幼子には、辛すぎる記憶を思い出し、少女は小さく震える腕で、自分の身体を抱き締め、目を閉じる。
少し身体を動かすだけで、鎖が冷たい音を立て、手首の枷が食い込む。
寒い。
痛い。
怖い。
寂しい。
けれど、その想いを口にする事さえ許されない。
自分は、沢山の同胞を死に追いやり、不幸にした大罪者。
この命が続く限り、甘んじて罰を受け続けるしかない。
物心ついた時から、罪人として扱われ続けた少女は、自分自身さえ、罰するようになっていった。
暗闇の中で、とっくに枯れ果てたと思っていた
涙が溢れ、零れる度に、目元がヒリヒリ痛む。
枯れ枝のように、細く小さな身体を抱きしめながら、少女はただ一人、膝を抱えて震えていた。
――――――どうして………?
――――――生まれてきては、いけなかったのなら……
――――――なんのために、わたしは生まれてきたの……?
絶望の闇の中で、少女は誰に向けたのか定かですらない、問いを投げかける。
沈黙の中、答えは何時までも返ってはこなかった………。




