第一話 はじまり
――――――っ………っ、……ひっく……っぐす……ぐすん……
(………―――だれ…だ…?誰か、泣いてるのか…?)
遠くから聞こえてきた、幼い子供のすすり泣く声に呼ばれるように、蒼く澄んだ水の中で、澪はゆっくりと目を開けた。
水の中にいるのに、冷たさは感じず、呼吸も出来ている。
全身を奇妙な、しかし、心地よい浮遊感が包み込み、時折ゴボゴボと、耳元で気泡が立ち昇る音が聞こえり。
ふと、視界の端を白い影が掠め、視線がそちらへと吸い寄せられた
その正体は、長い純白の髪を持つ、小さな女の子だった。
こちらに背を向けて踞り、顔を覆って、時折しゃっくりを上げながら、泣いていた。
泣き声の主は、この子だと確信し、澪は一歩ずつ、海底の砂を巻き上げながら、慎重に歩み寄り、距離を近付ける。
「―――君は、誰?どうして、ここにいるんだ?」
小さな背中に、そっと問いかけ、はっと目を見開く。
少女は、普通の人間とは、明らかに異なる部位を有していた。
水色のワンピースの裾から覗くのは、人間の脚ではなく、真珠のように白く滑らかな鱗で覆われ、先端にヴェールのようにヒラヒラとした尾ビレがついた、イルカのようにしなやかな魚の尾だった。
そして、長い髪の隙間から覗く両耳は、透き通った魚の鰭の形をしている。
――――――人魚。
少女の姿は、古くから言い伝えられる、海に生きる美しい幻想生物そのものだった。
……だが、小さな背を震わせ、しゃっくりと共に、涙をこぼすその姿は、痛ましく哀れで、普通の幼子と変わらない。
澪はさらに数歩近づくと、その場にしゃがみこみ、優しく小さな背中に話しかけた。
「……どうして、泣いているんだ?」
少女が人外の者である事は、既に気付いていた。
だが、そんな事実より、目の前の少女の痛みを、少しでも拭ってやりたい気持ちが勝っていた。
少女のすすり泣きが、ピタリと止み、沈黙が落ちる。
ゆっくりと、恐る恐るといった様子で、少女が振り返る。
そして―――――――――……………。
――――――ピピピピピピッ!
突如鳴り響いた、甲高い電子音が、鼓膜を突き破って脳内を反響し、夢の世界を木っ端微塵に打ち砕いた。
「…ぅ……ん」
突如、夢から現実のベッドの上へと叩き出された少女は、気怠げに呻きながら、シーツの上を這うように腕を動かし、手探りで枕元の電波時計を探しだすと、やや乱暴な手つきで、スイッチを切った。
表示された時刻は、午前七時。今日は平日。
学校がある以上、起きないわけにはいかない、が……。
もう少し…もう少しだけ、このだらけた甘美な時間に浸っていたいと、寝返りを打つ。
目を閉じて、枕に顔を擦りつけるように、埋めた直後―――。
「澪――、起きたの?」
ドアの向こうから、急かすような、少し呆れたような声が響き、少女は溜め息を漏らした。
小さく、ん…と呻き声を漏らし、少女はゆっくりと重たげに身体を起こし、気怠げに顔を上げる。
まだ幼さが残るが、整った顔立ちに、形の良い、くっきりとした目鼻立ちを持つ、凛とした清廉な雰囲気の少女だった。
寝癖で乱れた長い髪は、見事な濡羽色をしており、形よく生え揃った長いまつげが縁取る、目尻のつり上がった、黒曜石のように澄んだ瞳は、すました猫を想わせた。
少女の名前は水瀬澪。歳は十四歳。
私立玉水大学附属中学校三年生。
何処にでもいる、平凡な女子中学生である。
「ふわあ…っあ…」
大きな欠伸の後伸びをし、ベッドのマットレスに右手をついた時、不意に指先に何かが当たった。
それは、首から下げられるよう紐を通された、弧を描く龍の装飾が周りを縁取る、黒曜石を磨いて作られた、五百円玉サイズの小さな鏡だった。
澪は、それを首にかけた後、着替える為にベッドから降りた。
――――――十分後。
一階に降りた澪は、脱衣所に設置された洗面台の前で、洗顔料の泡を洗い流していた。
濡れた顔をタオルで拭き終え、顔を上げる。
寝起きで気怠げだった表情は、洗顔によってしゃっきりとした表情に引き締まり、服もパジャマから、制服である、白いYシャツと水色のプリーツスカートの組み合わせに、赤いリボンが映える、制服に着替えられていた。
タオルで顔を拭いていると、不意に、先ほどの夢で見た光景が脳裏を掠める。
夢の内容は、殆ど覚えていないが、雪色の綺麗な髪と、海色の澄んだ瞳は、瞼の裏に鮮明に焼き付いている。
鏡の前で、寝癖で乱れた長髪を櫛で整え、紺色のヘアゴムで髪を一つに纏め終えた澪は、軽く身だしなみをチェックしてから、脱衣所を出た。
廊下を歩いていると、微かな出汁の香りが鼻腔をくすぐり、空腹を刺激して、無意識に唾が沸いてくる。
リビングに通じる扉のノブに手をかけ、扉を押し開けて足を踏み入れる。
光沢のあるフローリングの床と、その上に敷かれたふかふかのマットレス、部屋の各位置にバランスよく設置された、品の良い家具には、塵一つ落ちておらず、日頃の清掃がよく行き届いている事が伺える。
窓からは柔らかな朝日が差し込み、壁に立てかけられたTVからは、お天気キャスターの爽やかな声が流れていた。
左奥に設置されたダイニングテーブルの指定席で、新聞を読んでいた、白髪交じりの厳しい顔をした男性と、キッチンスペースで、朝食の味見をしていた、グレーのスーツの上に、エプロンを着用した、薄く化粧を施し、カールかかった上品なブラウンのミディアムヘアをした、朗らかな笑みを浮かべた女性が振り返った。
「おはよう、澪、やっと起きたの?」
「おはよう、澪」
二人の温かな声に、澪も挨拶を返した。
「おはよう、父さん、母さん」
エプロンの女性は母である、水瀬葵。
自席で、新聞を読んでいた男性は、父の水瀬敬志だ。
父は少々過保護で心配性、母は躾と生活態度に厳しく、小言も多いが、少し辟易する事はあっても、全部自分の為に、言ってくれている事はよく解っているので、煩わしいと思った事は一度もない。
「ご飯、冷めないうちに、早く食べちゃいなさい」
「はーい」
みそ汁の入ったお椀を受け取り、澪はリビングに設置された、ダイニングテーブルの自分の席へと座る。
目の前には、葵が用意してくれた、朝食が並べられていた。
三つに区切られた、木製のプレートには、それぞれひじきの煮物とだし巻き卵、サラダが綺麗に盛り付けられ、メインのスペースには、丸みを帯びたおにぎりが二つ乗せられている。
愛用の湯呑みに緑茶を注ぎ、手を合わせて「いただきます」と挨拶してから、朝食を食べ始めた。
箸でサラダを口に運び、おにぎりを一口頬張る。
程よい塩気と、梅干しの酸っぱさが、米の自然な甘さを引き立てている。
TVのニュースを眺めながら、熱々の味噌汁に、息を吹きかけて冷まし、少しずつ流し込む。
「…最近、学校はどうだ」
敬志に不意に声をかけられ、澪は食事の手を止めて、顔を上げた。
「特に、いつも通り普通…なんだけど…」
「?…なんだ?」
静かに聞き返してくる父に、澪ははっと、我に返って首を振る。
「ううん、何でもない」
「何か悩みがあるの?」
父と自分のお弁当に、彩りよく詰めていた葵が、憂いを帯びた表情で、キッチンスペースから顔を覗かせた。
「大丈夫だよ、本当に何もない。梨子ちゃん達もいるし、部活も楽しいし」
澪は小さく息を吐き、口元にあまり得意ではない笑みを作って答える。
両親の視線から逃れるように、壁に立て掛けられた時計を見て、再び残りの朝食に箸をつける。
今の話で、納得した訳ではないだろうが、両親はそれ以上追求してこなかった。
嘘は言っていない。優しい両親がいて、学校に行けば親友の梨子や、心許せる友人がいる。
人並み以上に、周囲に恵まれている境遇である事は、十分理解している。




