第二十五話 最悪の果てなき回廊
俺たちはアテナ王女の国章をしっかりと胸に抱き、漆黒のトンネルの奥へと、一歩の躊躇もなく足を踏み入れた。
――だが、その選択こそが、最悪の罠への入り口だった。
トンネルの中はひんやりとしており、足音が不気味に反響する。壁面には一定間隔で魔力灯が灯っているが、その光はどれも弱々しく、奥へ進むほどに闇が深くなっていく感覚があった。十分ほど歩いた頃だろうか。俺はふと足をとめた。
「……おかしいな」
「キュ…?」
「もう一キロ近く歩いているはずだ。このトンネルは直線のはずなのに、一向に出口の光が見えてこない」
それだけではない。俺の『異常な冷静さ』が、周囲の光景の微細な違和感を瞬時にキャッチしていた。右側の壁。さっきから何度も、全く同じ形状の“ひび割れ”と、煤けた魔力灯の配置を目にしている。
「ステラ、俺たちの歩行速度から計算して、とっくに反対側へ抜けている時間だ。なのに……」
「キュ!? 」
ステラが慌てて魔力を放ち、トンネルの先へと波を走らせる。だが、後ろから波が戻ってきた結果にステラの顔が青ざめた。
「キ、キュ……。キュキュ……!」
「空間のループか」
俺は冷静に手元の“禁断の魔法書”を開いた。この際だ使うしかないだろうっと思った。しかし、魔法書は激しくページを捲るものの、周囲の魔力に拒絶されているかのように、明確な術式を示さない。
背筋を冷たい汗が伝う。どれだけ前に歩いても、あるいは引き返そうと後ろに歩いても、景色は完全に同じ。足元に目印として落とした小石すら、数十歩歩いた先で再び目の前に現れる。脱出の糸口が、完全に塞がれている。
「キュ、キュ…!? 」
ステラの声に、隠しきれない恐怖が混じり始める。無限に続く暗闇。足音だけが響く閉塞空間。人間の精神をじわじわと蝕む、最悪の始まり。だが、俺の瞳から光は消えていなかった。
「落ち着け、ステラ。ループしているなら、この空間そのものに『核』があるはずだ。」
脱出の手がかりは見えない。完全に閉じ込められたまま、最悪の夜が、今、始まった。
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どれほど歩いただろうか。十歩、二十歩、五十歩。足元に転がる、先ほど俺自身の手で傷をつけたはずの小石が、またしても前方から現れる。右側の壁に走る、稲妻のような形状のひび割れ。煤けた魔力灯の、不規則な明滅の周期。すべてが、寸分の狂いもなく繰り返されていた。
「キ……キュキュ……。」
ステラの声は、先ほどよりも一段と細く、震えていた。小さな身体が、俺の肩の上で小刻みに揺れている。精神を摩耗させる、静かなる拷問。人間は、視覚的な変化のない閉塞空間に閉じ込められると、数時間で時間の感覚を失い、やがて自己の存在すら疑い始めて狂い出すという。この無限に続くトンネルは、侵入者を物理的に殺すのではなく、精神から効率的に圧殺するための『精神の墓場』だった。
だが、俺の脳細胞は、依然として氷点下の冷徹さを保ったまま、フル稼働を続けていた。
「落ち着け、ステラ。パニックは自分を殺す。深呼吸しな」
「キュキュキュ……!キュ!?」
「なんでそんなに冷静かって?少しだけ他人より頭が冷えやすいだけだよ」
いや、正確には違う。俺をこの世界に繋ぎ止める楔――『星奈』の存在を思い出した今の俺にとって、この程度の精神攻撃はノイズにすらならなかった。彼女のいない灰色の世界に比べれば、この暗いトンネルなど、ただの『解くべき数式』と同じに過ぎない。
「いいか、ステラ。この空間は完全にループしているが、位置情報が書き換えられているタイミングがある。例えば俺たちが五十歩進むごとに、空間の座標が反転してスタート地点に接続されているとかだったら、この空間の主は、俺たちに『進んでいると錯覚させながら、同じ円の上を歩かせている』ってことだ」
手にした“禁断の魔法書”の頁をめくる。本は激しく明滅し、周囲の空間に充満する歪んだ魔力を感知して、警告を告げるように禍々しい黒い光を放っていた。
「だから、その『接続点』を無理やり破壊すれば脱出できるだろう、探そう接続点か核を」
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時間は、とうに意味を失っていた。
トンネルに入ってから数時間が経過したのか、それともすでに数日が経っているのか。スマートフォンのような精密な機械を持たないこの世界において、無限に繰り返される煤けた魔力灯の明滅だけが、狂った時計の針のようにチカチカと視界を刺激し続けていた。
「きゅ……、きゅ……っ!」
ステラの荒い呼吸が、俺の耳元で途切れ途切れに響く。小さな身体から放たれる光は、明らかにその輝きを失い、今や消えかけの蝋燭のように弱々しい。その小さな瞳からは生気が失われつつあった。無理もない。数十歩進めば、また全く同じ場所に、全く同じ傷一つない姿で奴らが佇んでいるのだ。
進んでも、進んでも、世界そのものがこちらの努力を嘲笑うようにリセットされる。消費した体力が、自分たちが確かに時間を過ごしているという残酷な証明だった。
その時、十数体もの影の番人たちがいきなり現れ、一斉にこちらへ向かって突進してきた。その手には、漆黒の刃が握られている。
「キュ!?」
「ステラ、俺の背後を警戒しろ。前方は俺が抉じ開ける!」
俺は少し疲れた足を一歩を踏み出し、前の街で新しく購入した小刀で迫り来る影の番人たちを、切り裂いた。手応えはあった。影たちは音もなく両断され、霧のように霧散していく。
ステラが歓声を上げかけた、その直後だった。ザッ、と背後から衣擦れの音がした。振り返ると、そこには、今しがた俺が切り裂いて消滅させたはずの『影の番人』たちが、傷一つない状態で、全く同じ配置で佇んでいた。
「き……きゅ……? キュ!」
そこにも、先ほどと全く同じ数の影の番人たちが、一斉にこちらへ向かって突進してくる光景が広がっていた。 倒しても、倒しても、空間ごと巻き戻る。消費した魔力や、流した血、精神的な疲労だけが蓄積され、敵は常に新品の状態で目の前に現れ続ける。これこそが、このトンネルの本当の恐怖だった。
「クソ……ッ! これじゃ、キリがないじゃない!」
ステラが必死に閃光を放ち、敵の目を眩ませる。だが、それも数十秒後には『無かったこと』にされ、影たちは機械的に刃を振り下ろしてくる。ジワジワと体力が削られていく。迫り来る黒い刃が、俺の衣服を切り裂き、かすかに血が滲む。だが、その痛みの最中にあっても、俺の脳は驚異的な速度で状況を分析し続けていた。
(本当にすべてが巻き戻っているなら、俺の身体についたこの傷はどう説明する? 衣服の破れ目は? ――いや、巻き戻っているんじゃない。この空間は、ただ『同じ敵の複製』を無限に供給し続けているだけだ)
ならば、必ずこの供給を止めるための『大元』がある。このループ構造を維持している術式そのものを、俺の測定不能の魔力で完全に焼き切るしかない。そのためには、空間の接続点を見極めるための時間が圧倒的に足りなかった。容赦なく押し寄せる影の波。出口の見えない暗闇の中で、俺たちの足元は一歩ずつ、確実にすり減らされていく。
脱出の糸口は未だ見えず、無限の回廊は、冷酷に俺たちの命を貪り続けていた。




