↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/26

第二十三話 感情の記憶(想起)

あの雨の日の事件をきっかけに、俺の世界は完全に変わった。

自分の命すらどうでもよかったはずの俺が、星奈といる時だけは、信じられないくらいよく笑うようになっていた。くだらない冗談を言っては星奈を呆れさせ、俺が笑うと、星奈はそれが何よりも嬉しいみたいに、さらに楽しそうに満面の笑みを咲かせてくれた。世界はこんなにも温かくて、色鮮やかだったんだと、彼女の隣にいる時間だけが俺に教えてくれた。


――だが、幸せな時間は、永遠には続かなかった。

高校二年生の終わりの冬。放課後の夕暮れの教室で、星奈は俯いたまま、絞り出すような声で俺に告げた。父親の仕事の都合で、遠い地方へ転校しなければならなくなった、と。「……そっか」その瞬間、胸の奥が冷たい刃で抉られたように痛んだ。悲しかった。自分の肉体が傷つくことの何百倍も、胸が締め付けられるように苦しかった。だけど、俺以上に、星奈はボロボロと大粒の涙を流して号泣していた。


「嫌だよ……っ、真黎と離れたくない……っ! せっかく、せっかく真黎がいっぱい笑ってくれるようになったのに……っ!!」


泣きじゃくる星奈を、俺は今度は泣かずに、静かに強く抱きしめた。大丈夫、遠くに行っても俺たちの関係は変わらない。必ず会いに行くから。そう言って、彼女を安心させるためだけに、俺は人生で一番優しい笑顔を作って見せた。


そして、高校三年生。星奈のいない新学期が始まった。もともと、恐怖も他人の感情もバグっていた俺には、学校に星奈以外の知り合いなんて一人もいなかった。星奈という『錨(いかり)』を失った俺は、再び、周囲の人間から完全に孤立した。クラスメイトたちが受験や進路の話で一喜一憂し、騒いでいる教室の中で、俺だけがぽつんと自分の席に座り、ただ流れる時間を眺めていた。周囲の人間が何を考えているのか分からないし、分かりたいとも思わない。


世界から俺一人だけが切り離されたような、あの小学生の頃の事故現場で立ち尽くしていた時と同じ、冷徹で無機質な白黒の世界が戻ってきた。クラスの誰もが、俺を『不気味な奴』『関わりにくい孤高の男』として遠巻きに見ていた。


そんな中、俺は気づけばこの異世界へと転移(?)していた――。


異世界に来てからの日々は、あまりにも過酷だった。迷宮で五大神獣(ごだいしんじゅう)に襲われ、四肢をつぶされ、ソライヤでは街が吹き飛ぶほどの激戦を戦い抜いた。血を吐き、内臓を痛め、幾度となく死線を潜り抜けるうちに、俺の心はいつの間にか摩耗していた。削り取られるようにして、せっかく星奈がくれたはずの感情が、また消えかけていた。

そして、今も……。ただ淡々と、肉体が壊れるまでのプロセスを計算している自分がいる。感情がない。元の、不気味で冷徹なバケモノに逆戻りしていた。だが――。


(……いや、違う。感情を、失っていいわけがない。俺は、何のために戦ってる?星奈が待ってる……! 俺はまだ、感情をくれた『感謝』をしてないんだ!!)


脳裏に、激しい雨の中で泥だらけになりながら、慌てて俺を抱きしめ返してくれた星奈の温もりが、鮮烈に蘇る。「ここにいるから、私はどこにも行かないから」と号泣した、彼女の涙の温度が、冷え切った俺の胸の奥を激しく焦がした。


(俺は、星奈の元へ帰るんだ。ずっと一緒にいるって約束したんだ……ッ!!!)


ドクンッ!!!


(生きて帰る!!) と、胸の奥で眠っていた心臓が、割れるような音を立てて再び脈打ち始めた。消えかけていた感情が、星奈を想う圧倒的な執念によって、一瞬で引きずり戻される。白黒だった視界に、一気に鮮烈な色彩が殴り込んできた。死にたくない。こんな世界の果てで、星奈に会えずに終わるなんて、そんなの絶対に嫌だ。恐怖がある。怒りがある。帰りたいという狂おしいほどの渇望がある。バケモノじゃない。星奈は俺を一人の『人間』として、見てくれたんだ!再び目を見開いた。


ーーーーーーーーーー


「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」


喉が焼けるように熱い。巨大な猿の魔獣から逃げて辿り着いたのは、冷たい石造りの祭壇で行き止まりだった。


「ウオォォォォン!!」


地響きを立てて、追ってきた猿の魔獣が祭壇の間へと侵入してくる。それだけではない。魔獣の背後の闇から、さらに4体、完全に退路を断たれた。完全に囲まれた。魔物の大群が、牙を剥いて一斉に俺とステラへと襲いかかってくる。万策尽きた。武器もない。魔力もない。誰もが「ここまでだ」と絶望するような、本当の、本当の絶体絶命。だが――俺の瞳から光は消えていなかった。

魂の底から溢れ出た執念が、俺の脳内を気味が悪いほど冷徹に加速させる。感情を、心を取り戻したからこそ、絶対に生き残るための「計算」が超高速で組み上がっていく。


(魔獣たちの包囲網の密度、突進の速度……。祭壇の左奥、崩れかけた柱の影。あそこの死角を突けば、一瞬だけ群れの隙間をすり抜けられる。魔法も運も使えないなら、俺のこの『肉体』と『知略』だけでブチ抜く!)


「ステラ、俺の合図で最大の一鳴きをしろ! ――行くぞッ!!」


俺は地面を強く蹴り、牙を剥いて飛びかかってきた先頭の猿の爪を、紙一重の紙幅で上体を反らして回避した。そのまま、落ちていた石を猿の顔面に力任せに投げつけ、怯んだ一瞬の隙にその背中を踏み台にして高く跳躍する。


「ウガッ……!?」


「今だ、ステラ!!」


「キュ、キューーーーーッ!!」


俺の叫びに応え、フワフワと浮遊するステラが、祭壇の天井に向けてその小さな身体から持てる全ての魔力を絞り出した高周波の鳴き声を響かせた。それは攻撃魔法ではない。ただの『音』による目眩ましだ。だが、狭い祭壇の間に木霊したステラの全力の絶叫は、聴覚の鋭い猿たちの動きを一瞬だけ確実に硬直させた。


「ウオォ……っ!?」


猿たちが耳を塞ぎ、包囲網にわずかな、本当にわずかな歪みが生じる。俺はその刹那の隙を見逃さなかった。着地と同時に、崩れかけた柱の隙間へと滑り込み、魔物たちの頭上を文字通り『全力疾走』ですり抜けていく。爪が俺の衣服をかすめ、頬を鋭く切り裂く。だが、恐怖で足が鈍ることはない。ただ淡々と、星奈の元へ帰るためだけに、俺は魔物たちの群れの合間を泥臭く、しかし完璧な軌道で駆け抜けた。


「――っ、これで終わりだ!!」


祭壇の出口へと辿り着いた瞬間、俺は通路の脇にあった巨大な支柱の亀裂に向けて、残った全体重をかけて強烈なタックルを叩き込んだ。


バリバリバリ、ドッシャァァァァン!!!


限界を迎えていた入り口の天井が、凄まじい地響きと共に崩落し、大量の巨石が通路を完全に塞ぎ、猿の魔獣たちの咆哮を向こう側へと完全に閉じ込めた。


「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」


崩落の土煙のなか、俺はステラを抱きかかえたまま、森の外へと全力で走り抜けた。どれほど走っただろうか。魔獣たちの気配が一切届かない、静かな峡谷の開けた崖の上へと辿り着いた時、俺はたまらず冷たい草の上に大の字に倒れ込んだ。


「ガハッ……! ゲホッ……! 逃げ、切った……な……」


全身の筋肉が断線したかのように震え、一指も動かせないほどの疲労が押し寄せる。だが、残り一回の魔法書を抱えたまま、俺たちはなんとチート能力も魔法も使わず、ただの知略と執念だけで、あの絶望的な包囲網を完全に突破して生き延びたのだ。


「キュ、キューッ!」


腕の中から抜け出したステラが、無事を確認するように、俺の周りを嬉しそうに飛び回る。


「ああ、俺たちの勝ちだ、ステラ」


俺は夜空に浮かぶ美しい月を見上げ、そこにあるはずの元の世界と、星奈の笑顔を思い浮かべながら、不敵に口元を釣り上げた。


(待ってろよ、星奈。俺は、必ずお前の元に帰る)


窮地を自力で脱し、限界を超えた俺の旅は、ここからさらに加速していく――。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。