第二十二話 感情の記憶(忘却)
凶暴猿は虎ともつかぬ異形の姿でこちらにゾロゾロと5体同時に近づいてくる。その周囲の空間は、禍々しい呪いの魔力によって不気味に歪んでいる。
(――コイツ……! )
「ウガァァァァァッ!!」
魔獣たちが弾かれたように突進してくる。目にも留らぬその速度。「ハァッ!!」俺はフガルマの小刀を構え、魔獣の鋭い爪を迎え撃った。だが――ギィィィンッ! と激しい火花が散った次の瞬間、バキィィィンという鈍い音が峡谷に響き渡った。
「っ……、嘘だろ……っ!?」
どんな魔物の牙でも傷つかないはずのフガルマ特製の鋼鉄が、魔獣5体の圧倒的な連撃の爪の硬度の前に、中心からボッキリとへし折られたのだ。折れた刃の隙間をすり抜け、魔獣の爪が俺の胸元を浅く切り裂く。鮮血が舞い、衝撃で俺の身体は地面を何度も転がった。
「キュ、キュ、キューッ!」
宙に浮くステラが慌てて俺の顔をペチペチと叩く。いきなり絶体絶命だ。
「ステラ、走れ! まともに戦うな、逃げるぞ!!」
俺はへし折れた小刀の柄を投げ捨て、ステラを連れて、断崖絶壁の細い一本道を全力で走り出した。
「ウオォォォォン!!」
背後から、地響きを立てて魔獣が猛スピードで追ってくる。振り返れば一瞬で追いつかれる。俺は必死に頭を回転させ、崖の壁際にある巨大な岩塊に向けて、身体に残った僅かな魔力を直接叩きつけた。魔法を発動するのではない。魔力の衝撃波で、岩の『重心』をほんの一瞬だけ狂わせる。ガラガラガラッ!! と、絶妙なタイミングで崩落した巨大な岩が、追ってくる魔獣の目の前へとピンポイントで崩れ落ちた。「ガッ……!?」岩に視界を遮られ、わずかに足止めを喰らう魔獣。
「キュ、キューッ!!」
ステラもただ守られているだけではなかった。フワフワと宙に浮きながら、その小さな身体で、俺に運を与えてくれていた。
「ナイスだ、ステラ! このまま突っ切る!」
戦うためじゃない。生き残って、組合長に会うために。俺は血を流しながら、時に瓦礫を落とし、時にステラの細かな幸運で追撃を逸らしながら、息が詰まるような決死の撤退戦を繰り出し、峡谷の最奥へと泥臭く走り続けた――。
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(――あれ、よく考えたらなんで俺は、こんなに冷静なんだ?)
ふと、自分の内側にある決定的な『異常』に思考が向く。
普通の人間なら、恐怖で足がすくんでとっくに死んでいる。急に転移し、知らない土地の迷宮で殺されかけ、街が吹き飛び、世界の崩壊を望む化け物と殺し合い、今まさに爪に引き裂かれ殺されそうになっているのだ。パニックを起こし、絶望に涙を流すのが正常な人間の反応だろう。なのに、俺の視界は白黒の映像のように平坦で、雑音一つ混じっていなかった。元の世界にいた頃の記憶が、走馬灯のように脳裏をかすめる。
幼い頃から、俺は周囲の人間と決定的に何かがズレていた。それを自覚したのは、小学生の時だ。放課後の通学路、俺のすぐ目の前で大型トラックが乗用車に激突し、大破する光景を見た。金属がひしゃげる凄まじい轟音、飛び散るガラス片、炎、そして車内に閉じ込められた人間の血の匂い。周囲の大人は悲鳴を上げて逃げ惑い、一緒にいた同級生たちは恐怖で泣き叫んでいた。凄惨極まる事故現場。
だが、その中心で、俺だけはただ淡々と「あ、潰れた」と、まるでテレビの画面越しにニュースを見ているかのような、絶対的な距離感を保ったまま立ち尽くしていた。可哀想だとも、怖いとも思わなかった。ただ、物理現象として車が潰れた、という事実だけが脳に記録された。泣き叫ぶ周囲の人間を見て、初めて「俺はおかしいのかもしれない」と子供心に思った。
中学へ進むと、その『欠落』はさらに顕著になった。学校の屋上で、不注意からビルから転落しかけた時もそうだ。老朽化していた手すりが重みに耐えかねてバキリと壊れ、俺の体半分が空中へと投げ出された。「真黎!!」と、一緒にいたクラスメイトが顔を青ざめさせて絶叫する中、俺の視界はスローモーションに切り替わっていた。地面までの距離はおよそ十五メートル。自由落下した場合、約一点七秒で激突する。衝撃を和らげる植え込みは右側に三メートル。恐怖で頭が真っ白になるなんてことはなかった。
ただ「手すりの強度が足りなかったな」と、落ちて死ぬまでのプロセスを冷徹に計算し、驚くほど冷静に、残った片手でわずか数センチの壁の突起を掴んでぶら下がった。助かった後、腰を抜かして泣いている友人を見ながら、俺は自分の心拍数が全く上がっていないことに気づき、深い諦めのようなものを感じていた。それなのに周りの人たちは俺に優しくしてくれていてた。俺も嘘の笑顔とノリである程度楽しんでいた。他人の感情が分からないわけじゃない。
何故だろうか……。
そんな壊れた俺の人生に、唯一、鮮やかな色をくれた奴がいた。
中学の卒業式の日。校舎の裏手で、クラスメイトの啞咲星奈に呼び出された。
「あの……私、あなたのことが好きでした! 付き合ってください!」
夕日に照らされた彼女の顔は、真っ赤だった。俺、小学校の頃はそれなりにモテていたのだが、中学に上がってからは、パッタリとモテなくなっていた。だから、まさか星奈から告白されるなんて夢にも思っていなくて、俺の心拍数はその時、人生で初めて跳ね上がった。気がつけば、俺の顔も彼女に負けないくらい真っ赤になっていた。お互いに茹で蛸みたいに顔を真っ赤にしながら、俺たちは付き合うことになった。彼女と過ごした日々は、思い返せばいつでも眩しかった。
初めて手を繋いだのは、高校一年の五月、雨上がりの放課後だった。不自然なほど冷たい俺の手を、星奈は「冷え性なんだね」と小さく笑いながら、ぎゅっと両手で包み込んでくれた。その時に伝わってきた彼女の体温の心地よさを、俺の皮膚は今でも鮮明に記憶している。
夏休みには、地元の小さな花火大会に二人で行った。慣れない浴衣姿で鼻緒が痛むのを隠して歩く星奈の歩幅に、俺が気づいて足を止めると、彼女は恥ずかしそうに俺のシャツの裾を遠慮がちに掴んできた。夜空に大輪の花火が弾け、周囲が歓声を上げる中、星奈は花火よりも真っ直ぐに俺の目を見つめて「来年も、その次も、ずっと一緒に来ようね」と微笑んだ。他人の言葉がこれほど深く胸に刺さったのは、初めてだった。
秋の定期テストの前には、図書館の隅で二人並んで居残り勉強をした。集中力が切れた星奈が、俺のノートの端にシャーペンで下手くそな俺の似顔絵を描いて、「真黎って、いつも真面目な顔してるから描きやすいなぁ」とおでこを机に突っ伏して笑っていた。ただそれだけの何気ない時間が、俺にとっては世界の何よりも特別だった。
冬、俺が珍しく熱を出して学校を休んだ日、星奈はわざわざ家までお見舞いに来てくれた。不器用なくせに一生懸命剥いてくれた、少し形がいびつなリンゴ。それを口に運んだ時の甘酸っぱさと、心配そうに俺の額に手を当ててくれた彼女の小さな手のひらの温もり。自分の死にすら何も感じない俺が、星奈といる時だけは、自分が『普通の人間』になれているような気がして心地よかった。星奈の笑い声、怒った顔、拗ねた時の仕草、そのすべてが、俺の壊れた精神を繋ぎ止める錨だった。
――だが、あの雨の日。俺の『欠落』は別の形で牙を剥いた。
傘を差して並んで歩いていた下校途中。星奈が何気なく一歩、車道へと踏み出したその瞬間だった。信号無視のトラックの激進、視界を遮る雨、激しいクラクションの音。スローモーションになる世界。
小学生の頃の事故、あの瞬間。いつもなら「あ、衝突するな」と、他人事のように物理現象として計算するはずの俺の脳が、その時だけは完全に暴走した。
(――嫌だ。星奈が死ぬなんて、そんなの絶対に嫌だ……ッ!!!)
生まれて初めての、底の知れない『恐怖』。自分の命が消えることには何とも思わないのに、彼女を失うことだけは、世界の終わりよりも恐ろしかった。気がついた時には、身体が思考を追い越していた。俺は傘を放り投げ、弾かれたように星奈の身体を強く抱きすくめ、そのまま激しい雨の泥水の中へと飛び込んでいた。耳元をかすめていくトラックの轟音と風圧。間一髪で彼女を救い、強く抱きしめたまま泥だらけの地面に倒れ込んだ時、俺の心臓はドラムのように激しく波打っていた。腕の中で恐怖に震える星奈の温もりを感じて、俺は生まれて初めて、安堵の涙が溢れそうになるのを必死に堪えていた。
――いや、堪えきれてなどいなかった。
感情が欠落していたはずの俺の目から、熱いものが溢れ、星奈の濡れた肩へと次々に落ちていく。言葉は何も出なかった。ただ、喉の奥が引き裂かれそうになるほどの嗚咽を殺し、雨の音に紛れ込ませるようにして、俺は無言のまま涙を流し続けた。大怪我をしても、死にかけても乾いたままだった俺の瞳が、初めて『大切な誰かを失う恐怖』を知り、人間としての感情を取り戻した瞬間だった。
「……真黎?」
俺の腕の中で、星奈がハッと顔を上げた。彼女の制服は泥にまみれ、身体はまだトラックの恐怖で小刻みに震えていた。けれど、俺の顔を見た瞬間、星奈もまた慌てて俺の背中に両腕を回し、壊れ物を扱うように強く、必死に抱きしめ返してきたんだ。
「真黎、泣かないで……っ! 私、大丈夫だから! ちゃんと生きてるよ……っ!」
いつも冷徹だった俺が、見たこともないような必死な顔で、子供のようにボロボロと無言の涙を流している。その異常な姿に、星奈は自分の恐怖すら忘れてパニックになり、俺の背中を何度も叩きながら、泥を被った小さな手で俺の頬を必死に拭ってくれた。
「ありがとう、助けてくれてありがとう……! だからもう、そんな顔して泣かないで……ここにいるから、私はどこにも行かないから……!」
激しい雨の音のなかで、耳元で囁かれる彼女の必死な声を聞いた時、俺の胸の奥の、固く閉ざされていた感情が、本当の意味で粉々に砕け散った気がした。




