第十一話 ギリギリの到着
「ガァァァァァッ!」
地中から飛び出したワームが、真横から俺たちに襲いかかる。
「ッッ………!」
俺の左袖ごと少し肉が抉られる。一歩歩を進めるごとに、砂に足が取られ、太ももが焼き切れるように熱くなる。魔力は底を突き、呼吸は完全に上がっていた。背中のアテナ王女を落とさないよう、腕の感覚がなくなるほど強く彼女の身体を固定する。
「シンリ、くん……っ、ごめんなさい、私のせいで……」
背後で、アテナ王女が涙を流しながら小さく呟くのが聞こえた。
「謝らないで、あなたは、ここでは、、死なせない、、!」
喉から血の味がするほどの咆哮と共に、俺は最後の力を振り絞って砂丘を駆け上がった。視界が開ける。その先には――灰色の砂が途切れ、ゴツゴツとした岩肌の景色が広がっていた。砂漠の出口が近づいていた、残り約3キロ
だが、世界の悪意はどこまでも俺たちを追い詰める。
ズゴゴゴゴゴ……!
「なっ……!?」
前方から、これまでを上回る数のワームが地響きを立てて一斉に這い出てきた。それだけではない。左右、そして背後からも砂が跳ね上がる。完全に包囲された。横を見れば、ジンの手を引いていたステラが、今にも倒れそうなほど呼吸を乱して限界を迎えている。その足元では、限界を超えて能力を使ったジンが、完全に意識を失って気絶していた。戦えるのは、左腕を負傷し、魔力を使い果たした俺だけだ。
「シンリくん……これを使って……!」
おぶっているアテナ王女が、涙で震える手で自身の懐から一冊の古びた本を差し出してきた。それは、彼女の国の『氷魔法の魔法書』だった。
「ありがたい、借りるぞ!」
迫り来るワームの群れ。突きつけられた圧倒的な絶望。
(魔力がない?………関係ない! ジンは言った、俺にはまだまだ未知数の力が眠ってると。なら……っ)
「強引に使うまでだろぉがぁぁぁあ!!」
俺の魂の叫びに応じるように、身体の奥底、魔力の「底」のさらに下にあるナニカが、ドクンと激しく脈打った。
灰色に染まる砂漠の戦場から、遥か遠く離れたどこか――。水晶の球体。その滑らかな表面には、満身創痍の身体で狂ったように迫るワームを睨みつけ、最高位の魔法書を掲げるシンリの姿が、克明に映し出されていた。
「――おっ。ついに本来の力を、使うか」
シンリが引きずり出そうとしているその「未知の力」が何であるかを、楽しみに待っているような。映し出された水晶の向こうで、シンリが放つ力が、今まさに暴走気味に膨れ上がろうとしていた。――そんな視線があることなど、今の俺が知る由もない。
『超攻撃氷魔法“ゲルム・ゼロカルマ”』
俺は右手の小刀を前方へと突き出し、最高位の術式を一気に解放した。
パキィィィィイイン!!!
小刀の先から放たれたのは、猛烈な吹雪を伴った絶対零度の氷嵐だった。ステラの持つ『運350』の残滓、そして俺の奥底から目覚めた未知の魔力が混ざり合い、魔法は本来の威力を遥かに超えて暴走する。
一瞬だった。包囲していた何十匹ものワームの群れは、咆哮を上げた姿勢のまま一瞬で巨大な氷像と化し、自重に耐えかねてパリン、パリンと小気味いい音を立てながら粉々に砕け散っていく。視界のすべてが、巨大な氷の槍が乱立する「白銀の世界」へと変貌した。
凄まじい一撃の後、急激な寒気と強烈な眩暈が俺を襲う。視界がぐにゃりと歪み、今にも意識が闇に溶けていきそうだった。だが、まだだ。まだ倒れるわけにはいかない。ここはまだ開けた砂漠の境界線だ。凍りついたとはいえ、いつ他の化け物や追手が現れるか分からない。気絶したジン、限界を迎えたステラ、そしてアテナ王女を、こんな無防備な場所に晒したまま意識を手放すわけにはいかなかった。
「シンリ、くん……?」
背中でアテナ王女が不安げに俺の名を呼ぶ。
「……こっち、だ……!」
俺は血の味がする唾を吐き捨て、最後の、本当に最後の気力を振り絞って足を動かした。動けないジンを、ステラと共に引きずるようにして、岩場の影へと滑り込む。そこにあったのは、砂風に侵食されてできた、狭い岩の裂け目――天然の洞窟のような、身を隠すにはうってつけの閉ざされた空間だった。ここまで来れば、外からは死角になる。化け物にも見つからない。
「……ここ、なら……」
奥の岩肌にジンを横たえ、ステラがその横にへたり込むのを見届ける。背中からアテナ王女をそっと下ろした瞬間、張り詰めていた俺の限界の糸が、プツリと音を立てて切れた。
「シンリくん!?」
アテナ王女の焦燥に満ちた声が、ひどく遠くに聞こえる。身体が重力に従うように、冷たい地面へと倒れ込んでいく。受け身を取る余裕すらなく、視界は一瞬で真っ暗な闇へと塗り潰された。
ーーーーーーーーーー
どれほどの時間が経ったのだろうか。
「……ん……っ」
重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは、ごつごつとした灰色の岩肌だった。砂漠のうだるような熱気はなく、ひんやりとした静謐な空気が肌を撫でている。
「シンリくん……! 目が覚めたのね!?」
視線を巡らせると、すぐ横にアテナ王女が座り込んでいた。その美しい瞳は赤く腫れ、寝不足のせいでひどく疲弊している。だが、俺が意識を取り戻したのを見ると、心底安堵したように胸に手を当てた。
「俺、は……。」
体を起こそうとして、左腕に激痛が走り顔を顰める。見れば、ワームに抉られた傷には手厚く包帯が巻かれていた。その時、岩の影からステラが現れた。その奥に横たわるジンは、未だにぴくりとも動かず、深い眠りについたままだ。限界を超えて能力を使った反動は、想像以上に深刻らしい。そのジンの姿と、無事だった俺の姿を交互に見つめていたアテナ王女の肩が、不意に小さく震え出した。
「よかった……。本当に、みんな生きて、助かってよかった……っ!」
張り詰めていた緊張の糸が完全に切れたのだろう。アテナ王女はその場に崩れ落ちるようにして、両手で顔を覆って泣き崩れた。騎士団長を失った絶望。迫り来るワームの恐怖。その中で俺たちまで失うかもしれないという極限の不安に、彼女はずっと一人で耐えていたのだ。俺は無傷の右手をそっと彼女の背中に添え、その涙が止まるまで、静かに寄り添い続けた。しばらくして、ようやく涙を拭ったアテナ王女は、少し恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、真剣な眼差しで俺を見つめてきた。
「……シンリくん。あなたに、どうしても聞きたいことがあるの」
「俺に?」
王女は、自分の膝の上に置かれた古びた本――最高位の『氷魔法の魔法書』へと視線を落とした。
「あの時、あなたが放った『超攻撃氷魔法“ゲルム・ゼロカルマ”』は、本来なら数人がかりで儀式を経てようやく発動できる規模の戦術魔法です。それを、魔力が枯渇した状態から、たった一人で、しかもあの威力を引き出すなんて……。シンリくん、あなたの体内の魔力量は、一体どうなっているの?」
王女の言葉に、俺は自分の右手のひらをじっと見つめた。言われてみればそうだ。あの時、確かに俺の身体の奥底から、濁流のような魔力が溢れ出してきた。まるで、あの時と同じように。
「……分からない。ただ、一つだけ確かなのは」
俺は自嘲気味に首を振った。
「あの力は、俺の意志で引き出したものじゃない。……自分じゃ、まだ50しか制御できないんだ」
「制御できない……?」
アテナ王女が息を呑む。
「なるほど、それでナナラク大陸へ魔力50でも戦える魔道具を探しにいくのですね。すべてが不明な、制御できないほどの力……。シンリくん、どうかこれを受け取ってください。あなたがその強大すぎる力に呑まれそうになった時、己を律する『楔』となるように。そして、ナナラク大陸を目指すあなたの旅の守りとして」
手のひらに伝わる、大剣のずっしりとした重み。そこには、一人の騎士が最期まで全うした誇りと、強い意志が宿っているように感じられた。
「……分かりました。己を見失わないために、俺が持っています」
俺が剣を強く握りしめると、アテナ王女は初めて、小さく、しかし温かい微笑みを浮かべた。だが、感傷に浸っている時間は一瞬もなかった。ズズズ……と、岩の裂け目の外から、暴走するワームたちの不気味な地鳴りが遠くから響いてくる。
「アテナさん。ここから出口まで、あと約3キロだ。追手がいつここを見つけるか分からない。ジンが目を覚ますのを待つ猶予はないんだ。……動けるか?」
「はい。団長の形見を、あなたに託したのです。もう、泣き言は言いません」
アテナ王女は力強く頷くと、自らの足でしっかりと立ち上がった。その瞳からは、先ほどまでの怯えが完全に消え去っていた。
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「ジン、重てぇぞ。……新大陸に着いたら、飯でも奢りやがれ」
俺は気絶したままのジンの巨体を、負傷した左腕の激痛を堪えながら必死に背負い込んだ。凄まじい質量が足腰にのしかかり、太ももが焼き切れるように熱くなる。
「ステラ、すまないが最後のひと踏ん張りだ。お前の『透明化』で、俺たちを隠してくれ」
「キュ、イ……」
限界寸前のステラが、俺の言葉に応じるように小さく鳴き、最後の魔力を振り絞ってスキルを発動させた。一瞬にして、俺たちの身体が周囲の景色と同化し、完全に光の向こうへと消え去る。
「行くぞ……!」
俺たちは岩の裂け目から、再び灰色の砂原へと飛び出した。周囲の砂地は、先ほどの超攻撃氷魔法の名残でパキパキと白く凍りついている。だが、その氷の領域のすぐ外側では、狂乱したワームたちの影がいくつも蠢いていた。
ハァ、ハァ、ハァ……!
一歩、また一歩と、砂を踏み締めて進む。背中のジンの重みで足が砂に深く沈み込み、傷口から流れる血がじわりと包帯を濡らしていく。喉が焼け付くように熱く、視界がチカチカと明滅する。
(あと2キロ……あと1キロ……!)
すぐ真横を、巨大なワームの影が地鳴りを立てて通り過ぎていく。心臓が跳ね上がるような緊張感の中、ステラの『透明化』と規格外の『運350』が俺たちを完全に守り抜いていた。奴らは鼻先を掠めるほどの距離にいる俺たちの存在に、ついに最後まで気づくことはなかった。そして――ついに足元の感触が、サラサラとした灰色の砂とゴツゴツとした強固な岩肌が補装された道へと変わった。
――砂漠を抜けた。




