第7話「ローストビーフ」
一番は、知らない五人のうちの一人だった。
眼鏡をかけた、中年の男だ。
バケツに両手を沈め、一杯すくって、容器に空ける。
男は容器をのぞき込み、首をかしげた。
もう半分ほどすくい足して、濡れた手を膝で拭く。
目盛りのない容器では、それが百グラムなのか誰にも分からない。
始まって、一分もたっていなかった。
拍子抜けするくらい、あっけない。
二番は、昨日同じチームだった中学生の兄だった。
両手を椀にして、水面にそっと沈める。
持ち上げるたびに、唇が動いた。
いち、に、さん。
声は出さずに、すくった数を数えている。
順番決めのとき指を折っていたのは、これだったのか。
三番は、小学生の妹だった。
小さな手のひらでは、一杯が浅い。
すくって運ぶあいだに、半分が指の隙間から落ちる。
「もうちょい入れとけって」
「多いだろ、それ」
声は、隣のチームから飛んできた。
向こうの誰かに言ったものだ。
それでも、妹の肩がびくりと上がる。
兄が隣にしゃがみ、さっきと同じように、声を出さずに数を数えはじめた。
妹の手が、また水に沈む。
四番は、知らない顔の若い男だった。
一度に多くすくおうとした。
手のひらに盛り上がった水が、運ぶあいだに指の間から逃げていく。
「四百なら、あと二杯じゃないか」
「いや、まだ足りないですよ」
今度は、俺たちのチームのほかの二人だった。
言う数が、もう揃っていない。
男は二人を見比べてから、黙って半杯足した。
五番から七番も、知らない顔が続いた。
番号が進むと、すくう回数が増えた。
待つ時間が長くなり、後ろから口を出す人も増えていく。
「あと三杯」
「五杯はいるだろ」
「もう入ってるって」
どの声も、自分の手では量っていない。
七番の女性は途中から、誰の顔も見ずにすくっていた。
八番の刺青の男が、バケツの前にしゃがむ。
一杯すくって、運ぶ。
二杯目を運んだところで、肩越しに後ろを振り返った。
駐車場の奥に、黄緑のジャージの姿はない。
男は前へ向き直り、手を速めた。
すくうたびに、こぼれる水が増えていく。
何杯目か、分からなくなったらしい。
容器をのぞいては、またバケツに手を入れる。
誰も、男には声をかけなかった。
九番の俺は、バケツの前に膝をついた。
両手を水に沈める。
冷たい。朝から一度も触れられなかった水だ。
このまま、手首まで沈めていたくなる。
一杯目を持ち上げたところで、後ろから声が飛んだ。
「九百だろ。もっとがっつり取れって」
「さっきの人、こぼしてたからな。ゆっくりな」
どちらにも返さない。
十八杯と少し。
頭の中で、その数だけを繰り返す。
一杯。二杯。
手のひらの形を崩さないように、容器の縁まで運ぶ。
指を閉じる力が緩むと、水は細い筋になって落ちていく。
九杯目を空けたところで、誰かが言った。
「あと半分だぞ」
知っている。
十八杯。
最後の「少し」は、片手で浅くすくって足した。
顔を上げると、隣の顔に包帯の男が、俺の容器を見ていた。
「ちょうどさあ」
男はそう言って、自分のバケツへ向き直る。
十番。
男は両手を椀にして、ゆっくりと水に沈めた。
順番決めのあいだ、空の手で繰り返していた形だった。
「千だぞ、千」
「一回で、もっといけるだろ」
男は返さない。
持ち上げる。運ぶ。傾ける。
指の隙間から、一滴も落ちない。
待っている声が、だんだん減っていく。
しまいには、誰も何も言わなくなった。
駐車場のどこかで、ほかのチームの声が続いている。
最後に片手で少し足して、男は手のひらを膝で拭いた。
三回目の組が呼ばれ、終わった。
従業員が容器を一つずつ持ち上げ、はかりに載せていく。
数字を書き留める手元は、俺のところからは見えない。
「以上で、本日の適性確認を終わります」
大型ドローンは、どのチームが勝ったのかを言わなかった。
階段を上がり、全員がホテル食堂に通された。
昼と同じ、白いクロスの長いテーブルが並んでいる。
天井近くには、小型ドローンが何機も浮いていた。
入口の脇に、濃紺のスーツの女が立っていた。
白石だ。襟の金色のバッジが、照明を受けて小さく光る。
「本日のお料理は、調理責任者の石井シェフが担当いたしました。
お肉は、シェフがその場でお切りいたします」
白石が手で示した先、料理の台の奥に、白い調理服の老人が立っていた。
最初に降りてきた一機は、俺たちのチームの前で止まった。
向きを変え、料理の台のほうへゆっくり進んでいく。
兄が振り返り、ほかのチームと俺の顔を見比べた。
俺にも、理由は分からない。
長い台に、料理が並んでいた。
真ん中の台には、大きな肉の塊が載っている。
表面は焦げ茶に焼き締められ、切り口は中心ほど薔薇色が濃い。
にじんだ肉汁が、まな板の溝に溜まっていた。
隣には、握りの寿司が隙間なく並ぶ。
鮪の赤、烏賊の白、光り物の銀。
鰆の切り身は、皮目にこんがりと焦げ目がついていた。
鉢には櫛形の梨。切り口に、水気が玉になっている。
奥には、苺を載せた白いケーキと、小さな器のプリン。
どの皿の縁にも、黄色い菊の花びらや、緑の葉が添えてある。
石井は、肉の台の向こうで長い包丁を持ったまま、並ぶ者の顔を黙って見ている。
「六枚」
先頭の眼鏡の男が言うと、石井はその場で肉を切った。
向こうが透けそうなほど薄い肉が、皿に重なる。
石井は何も言わず、次の者を見た。
妹は、ケーキの前から動かない。
兄がプリンを二つ取り、一つを妹の皿に載せた。
「二十枚な」
刺青の男が言った。
石井は表情を変えずに二十枚切る。
肉は一枚の皿に収まらず、皿が三つになった。
男は三つの皿を一度自分の席に置き、寿司の台へ戻ってきた。
一列ぶんを、まとめて新しい皿に移す。
まだ呼ばれていないテーブルから、いくつもの顔がその皿を追っていた。
俺の前は、顔に包帯の男だった。
「肉、何枚までいいさあ」
石井の包丁が、初めて止まった。
「食える分を言え」
「なら、十枚さあ」
石井は十枚切り、男の皿に載せた。
それから、少し声を落とす。
「寿司を先に食え。飯が乾く。
鰆は、冷めても味は落ちん」
「ありがとうさあ」
男は寿司の台へ移ると、握りを端から一貫ずつ取っていった。
脇に添えたガリも、大葉も、一緒に皿へ載せる。
鰆の焼き物からは、はじかみを。梨の鉢からは、菊の花びらを。
後ろで待つ人を、一度も振り返らない。
鼻歌まで聞こえた。
石井は、その皿を目で追っている。
「六枚、お願いします」
俺の声に、石井は黙って六枚切った。
脇の小鍋から、茶色いソースをひと匙かける。
皿の端には、すりおろしたわさびを少し置いた。
肉の皿を持って、台を端から回った。
握りは、鮪と烏賊と光り物を一貫ずつ。
鰆を一切れ、梨を二切れ。
お櫃の前で、茶碗に白いご飯を軽くよそう。
味噌汁の椀は、最後に盆へ載せた。
奥の台の前にいるのは、兄と妹だけだ。
大人は誰も、そちらへ行かない。
ケーキの苺が、照明の下で艶を保っていた。
後ろには、まだ三十のチームが待っている。
俺は、その台の前を通り過ぎた。
席に着いて、言われたとおり寿司から口に入れる。
酢飯はまだ柔らかく、舌の上でほどけた。
それから、肉を一枚。
ソースのかかっていない端を、そのまま口に入れた。
薄いのに、箸で持ち上げても千切れない。
噛むと、繊維がほぐれていく。
焼き締めた表面の香ばしさが、先に立った。
そのあとから、赤身の甘みがじわりと滲み出る。
脂は少ない。
くどさがない代わりに、肉そのものの旨みがあとまで長く残る。
二枚目は、ソースを絡めた。
醤油の味がした。その奥に、焼いた肉の香ばしさがある。
まな板の溝に溜まっていた、あの肉汁だ。
捨てずに煮詰めて、醤油と合わせてある。
細かく刻んだ玉ねぎが、噛むたびに甘く崩れた。
三枚目に、わさびをのせた。
辛さが鼻へ抜けて、すぐに消える。
あとに、青い香りが残った。
その下から、肉の甘みがもう一度立ち上がってくる。
「……これ、本わさびだ」
隣では顔に包帯の男が、最後の一枚で皿のソースを拭っていた。
梨は、最後に食べた。
切り口の水気が、肉の脂のあとの舌に冷たい。
奥の台のケーキの皿には、まだ苺が残っている。
二番目に降りたドローンは、女性が半分ほどのチームの前で止まった。
その中に、頭一つ高い女性がいた。
百八十センチは超えているだろう。
後ろでまとめた髪は、明るい金色だった。
彼女は肉の台へ行かず、奥の台の前に立った。
プリンの器を端から盆へ移していく。
長い腕が、台の端まで届く。
「これ、ぜんぶ、いいですか」
誰に聞いたのか、分からない。
同じチームの誰かが一つ取っただけで、あとは誰も手を出さない。
盆がいっぱいになると、仲間の盆を借りて続けた。
最後の一つを載せたとき、台にはカラメルの跡が残った。
彼女は盆を抱えて、席へ戻っていく。
俺たちのあとも、ドローンは一機ずつ降りてきた。
降りるたびに、一つのチームが台へ進む。
半分ほどのチームが過ぎたころ、肉の塊が小さくなった。
石井は端の切れ端まで薄く切り、最後の一人の皿に載せる。
まな板には、肉汁の跡だけが残った。
続いて、寿司の台からネタが消えた。
残っているのは、ガリと大葉だけになる。
そのあとのチームは、お櫃から白いご飯をよそった。
鰆の切り身を載せて、席へ戻る。
あるチームでは、窓際で寝ていた男の一人が、鰆を皿ごと抱えていた。
同じチームの女性が何か言いかけ、男に見下ろされて口を閉じる。
似たような揉め方が、ほかのテーブルでも起きては止んだ。
鰆の皿が空になると、お櫃の前で人が長く止まるようになった。
しゃもじでご飯を押しつけ、茶碗の縁より高く盛り上げていく。
おかずの代わりに、ご飯で腹を埋めるつもりなのだろう。
黄緑のジャージのチームが呼ばれたのは、ずっと後ろだった。
鰆の皿は空で、寿司の台にはガリの欠片しかない。
黄緑のジャージは肉の台を見た。
石井は空のまな板の前で、こちらを見ていない。
男は舌打ちを一つして、お櫃の蓋を開けた。
ご飯は、底のほうに残っているだけだった。
しゃもじでお櫃の内側をこそげても、茶碗に半分にしかならない。
味噌汁の椀を持って、席へ戻っていった。
最後のドローンが降りたとき、おかずの台は空になっていた。
ケーキの皿に、崩れたスポンジのかけら。
残っているのは、お櫃の底にこびりついたご飯と、味噌汁の鍋だった。
最後のチームの男が、盆を持ったまま振り返った。
茶碗の底に、お櫃をさらったご飯が少しと、味噌汁の椀が載っている。
「見てくれよ。俺たちの晩飯は、これだけだ」
声が、食堂のテーブルに向かって広がる。
「少しは、みんなのことを考えようって気はないのか。
後ろに人がいるのは、分かってただろ」
誰も答えない。
フォークの音が、一つ、二つと止まる。
俺は、自分の皿を見下ろした。
白い皿に、ソースの跡が残っている。
食事が終わると、ドローンがテーブルの間を回りはじめた。
一人ずつ、本人にだけ画面を向けていく。
俺の前にも、一機が止まった。
画面に、数字が一つ映る。
食堂の入口に、白石が立っていた。
「本日のお食事は、以上でございます。
これより、特典をお選びいただきます。
番号札の順に、お呼びいたします。
呼ばれた方は、ご希望をお書きください」
白石の声で、最初の番号が読み上げられた。
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