第3話 秋刀魚
食堂の天井近くに、小型のドローンが何基も浮いていた。
そのうちの一基が、すっと高度を下げる。
降りた先は、俺たちから離れた壁際のチームの前だった。
ドローンがテーブルの方へ滑っていく。
十人が顔を見合わせて、その後についていった。
一位のチームだと、食堂にいる全員が分かった。
近くの輪で、男たちが顔を見合わせる。
「あいつら、俺たちの組のトップじゃなかったぞ」
「なんでだ」
声は隣の輪へ、その隣の輪へと移っていった。
白石はテーブルの脇に立ったまま、何も答えなかった。
ステーキと刺身の舟盛りと伊勢海老の向こうにも、皿は続いていた。
天ぷら、すだちと大根おろしを添えた秋刀魚、出汁巻き玉子。
茶碗蒸し、栗ご飯のお櫃、デザートの台。
一位のチームの先頭の男が、テーブルを端から端まで目でたどる。
口もとが、こらえきれずに緩んでいく。
男がトングで、カットステーキを一切れ持ち上げる。
肉の縁から脂が一滴、鉄板に落ちて鳴った。
ステーキは、そこから先の全員が二切れか三切れずつ取っていった。
丼に飯を盛っている男がいる。
舟盛りから中トロと鯛とハマチと甘エビを、一切れずつ移していく。
上から、わさび醤油を回しかけた。
それを見た後ろの人が、その手があったかと笑って、同じ丼を作り始めた。
どの皿も、一人前の量だった。
皿が空けば、奥からまた運ばれてくると、誰もが思っているようだった。
二番目のチームも、同じ調子で取っていった。
三番目のドローンが降りたのは、黄緑のジャージの男の前だった。
レースの最後で何度も止められ、抜かれていったチームだ。
男と、その周りにいた五人が、テーブルの端から歩き出した。
鉄板に残っていたステーキを、六人で分けて全部取る。
鉄板の上には、脂だけが残った。
舟盛りからは中トロを、天ぷらの皿からは海老天を、選んで抜いていく。
伊勢海老は半身を何枚も重ね、ぶどうを房ごと持ち上げた。
男は、後ろにいた高校生たちの皿にも、同じものを積み上げた。
「若いんだから、腹減っただろ」
高校生の一人が、皿を引いた。
ほかの三人も手を止めて、男の顔を見ている。
「まだ補充があるだろ。気にすんな」
男が笑うと、四人は互いの皿を見た。
それから、皿を引くのをやめた。
男たちが通ったあとの大皿には、赤身と鯛の刺身が残っていた。
舞茸とさつまいもの天ぷらも、ばらばらに散らばっている。
列で待っていたチームの中から、女性が一人、白石の方へ一歩出た。
「あの、補充は、ありますか」
白石は女性に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「本日のお食事は、こちらで全てでございます」
食堂の音が止まった。
何十人もの目が、山盛りの皿を抱えたジャージのチームに向く。
男はそれに気づいて、片手を軽く上げた。
「おー、それは知らなかった。悪かったな」
皿を戻そうとする手は、六人のどこにもなかった。
白石が、男の方へ顔を向けた。
「お気になさらず。
どなたがどれだけお取りになったかは、拝見しておりますので」
男は肩をすくめ、チームの方に向き直って、席に腰を下ろす。
「気にすんな。食べろ食べろ」
仲間の五人が、音を立てて食べ始めた。
高校生たちは箸を持ったまま、周りの目をうかがっている。
やがて一人が、中トロを一切れ口に運んだ。
ほとんど何も食べていなかった体は、そこで止まらなかった。
四番目、五番目と、ドローンが降りていく。
レースは、十本のコースで三組が走った。
ここにいるのは、三十チーム近くになる。
俺たちの組で最後にゴールしたのは、俺だった。
おばあさんは膝の上で両手を握り、テーブルの方へ顔を向けずにいる。
半分ほどが呼ばれたころ、俺たちの頭上で羽音が止まった。
おばあさんが顔を上げて、俺を見た。
「私ら、最後じゃないの」
俺は答えられずに、首をかしげた。
おじいさんが、黙って妻の背中に手を添える。
おばあさんは、その手に押されるようにして立ち上がった。
テーブルの前で、俺は振り返った。
まだ十いくつかのチームと、どこにも入れなかった人たちがいる。
床に座ったまま、俺たちのほうを見ていた。
残っているのは、ジャージのチームが手をつけなかった皿ばかりだった。
鯛を三切れ取りかけて、一切れを舟盛りに戻す。
赤身は二切れにした。
兄妹の父親が俺の皿を見て、栗ご飯をよそう手を止める。
母親も、子どもたちの皿はそのままに、自分の皿を軽くした。
席に着くと、向かいのおばあさんが、俺の方へ身を乗り出した。
「誘ってくれて、ありがとうね」
俺は頭を下げて、箸を取った。
最初に、お吸い物の椀を持ち上げた。
柚子の香りが鼻に届いて、出汁が喉をゆっくり落ちていく。
一晩冷えきっていた腹の底に、熱い筋が一本、通った。
秋刀魚に箸を伸ばしかけて、俺は手を止めた。
口の先が、うっすら黄色い。
これは良い秋刀魚だとわかった。
腹の側から箸を入れる。
背より腹の方に脂が寄るから、最初の一口はここがいい。
皮が割れて、下から湯気が上がった。
わたの苦みが、身の脂と一緒に舌に乗る。
秋刀魚は食べたものが体をすぐ抜けていくから、わたにえぐみが残らない。
「そこ、残さない方がいいですよ」
おじいさんが、皿のわたと俺を見比べた。
大根おろしにすだちを搾って、身に載せる。
脂を切るために添えてあるものだから、使わない手はない。
赤身にわさびを少し載せて、醤油に端だけつける。
鯛は、角だけ触れさせた。
皿に残った大根のけんを、醤油の残りで寄せて口に入れた。
舞茸の天ぷらは、海老天を抜かれたあとの残りものだった。
衣を噛むと軽い音がして、奥から香りと汁気が溢れてくる。
窓際のテーブルで、ジャージの男が海老天の尻尾を皿に放っている。
あいつらは、これを置いていったのか。
隣では、小学生の妹が柿を両手で持ってかじっていた。
おじいさんとおばあさんは、秋刀魚の身をほぐしている。
ときどき、二人で頷き合っていた。
食堂のあちこちで、話し声と笑い声が戻ってきていた。
全部のチームが席に着いたあと、最後のドローンが壁際へ降りていった。
チームに入れなかった十数人が、その後について立ち上がる。
足を痛めた何人かは、片足をかばいながら歩いていた。
テーブルに残っていたのは、ご飯と吸い物くらいだった。
あとは、天ぷらのかけらと刺身のけんだ。
近くの席で、ほかのチームの中年の男が立ち上がった。
出汁巻きの残った自分の皿を、すぐ前にいた若い女性に差し出す。
羽音が、二人のあいだに割り込んだ。
小型のドローンが一基、皿と皿のあいだに降りて止まる。
「チームの外へのお渡しはできません」
差し出された皿が、宙で止まった。
男は皿を見下ろしてから、自分の席へ戻した。
隣のテーブルで、椀を持ち上げかけていた女性が、それを置いた。
十数人は残りものを皿に盛って、壁際の席にまとまって座った。
足首にテーピングを巻いた男は、皿に手をつけていない。
自分の足を見下ろしている。
「これさえ、なけりゃな」
その隣で、若い男がぼそりと言った。
「俺たちも、あのとき入れてたらな」
しばらく、誰も答えなかった。
向かいにいた男が、顔を一人ずつ数えるように見てから、顔を上げる。
「……十人いる。次は、俺たちで組もう」
何人かが、黙って頷いた。
食事が終わると、従業員に先導されて階段を下りた。
机も椅子も入っていない、がらんとしたオフィスのフロアだった。
灰色のカーペットの上に、寝袋が端から端まで並んでいる。
数えなくても、全員の分があると分かる数だった。
壁際の長机には、水を張った洗面器と、畳んだタオルが積まれている。
白石が、フロアの入口で振り返った。
「客室は、まだ準備が整っておりません。
本日は、こちらでお休みください」
誰も、何も言わなかった。
タオルを水に浸して顔と首を拭くと、一度で茶色くなった。
寝袋は、いつの間にかチームごとに寄せられていた。
どの輪も真ん中に荷物を置き、それを囲むように寝袋が並んでいる。
リュック、コンビニの袋、会社の名前が入った非常袋。
俺たちの輪の真ん中には、兄妹の家族の荷物が置かれた。
どの輪にも、真ん中に置くものがある。
俺が持ってきたのは、財布と仕事のカバンだけだ。
カバンを枕元に置くと、足せるものは何も残らなかった。
窓際の広い場所は、ジャージの男たちが取っていた。
寝袋を大きく広げ、その上に脚を投げ出して笑っている。
一人の襟もとから、首筋に彫られた色つきの模様がのぞいていた。
高校生の四人は、そこから少し離れて寝袋を並べ、額を寄せている。
男たちに声をかけられると、短く返事をするだけで、話は続かない。
あの四人は、自分たちから男たちと組んだわけじゃないんだろう。
あちこちの輪で、声を落とした話が始まった。
「説明もなしに、いきなり走らせてさ」
「なんでうちが真ん中なんだ。一位だったのに」
「補充がないなら、最初に言えよ」
「あいつらが取りすぎたんだ」
そう言った誰かは、窓際の方を見ないまま、寝袋に潜り込んだ。
どの声にも、俺は頷けた。
頷いたところで、返せる言葉は一つもなかった。
フロアの前に、白石が立った。
「皆さまには、お一人ずつ、点数がございます。
本日のお食事の順は、
チームの皆さまの点数を合わせたものでございました」
フロアがざわついた。
何の点数なのかを、白石は言わなかった。
「点数は、これからドローンがお知らせいたします。
ご確認いただけるのは、ご本人さまのみでございます」
天井の羽音が大きくなった。
小型のドローンが、寝袋の上を一人ずつ回り始めた。
順番が回ってきて、俺の前にも一基が降りる。
腹についた小さな画面は、俺の顔の方だけを向いていた。
数字が一つ、映っていた。
何点が満点なのかは、どこにも書かれていない。
隣のおじいさんの前にも一基降りていたが、その画面は見えない。
数字は、すぐに消えた。
ドローンが、天井へ戻っていく。
白石が、もう一度口を開いた。
「最後に、皆さま。
明日の適性確認のあとは、お食事に加えて、特典をご用意いたします。
客室・シャワー・コインランドリーの使用権、
携帯の充電、診察の優先、お酒とタバコ、保存食のセット。
詳しくは、パンフレットをお渡しいたします」
泥を拭いきれていない何人かが、シャワーの一言で顔を上げた。
別の輪では、充電の一言で、何人かがポケットに手をやった。
「特典は、お一人ずつの点数の高い方から、
二百位までお選びいただけます」
三十チーム近く。
一チーム、十人。
二百位に入れないのは、百人ほどになる。
さっき見た数字を、頭の中に呼び戻す。
あれが二百人の中にあるのかどうか、俺には分からなかった。




