第四十話 遺族は、事故記録を渡さない
吉岡真司の妻は、回収袋を開けなかった。
第五層救助所の面談室。
森下が机の上へ袋を置く。
正式な回収員が同席している。
白石律は後ろの壁際にいた。
電子署名が使えないため、返却確認には参加できない。
森下が説明する。
「腕時計、通信端末、識別札です。確認はここでしなくても大丈夫です」
吉岡の妻は袋を見たまま言った。
「端末に、事故の音声があるんですよね」
「あります」
「救助網に使いたいって」
森下は一度だけ律を見る。
律は何も言わない。
「使えるなら、事故の検証には役立ちます」
「嫌です」
返事は早かった。
「主人は仕事で死にました。それを次の仕事の教材にしたくない」
森下は頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
「返却後はご家族の物です。提供しない選択ができます」
妻は初めて顔を上げた。
「それで誰か死んだら、私のせいですか」
森下の喉が動いた。
数日前、同じ問いを自分が律へ投げている。
今度は自分が答える側だった。
「違います」
「でも、使えば防げるかもしれない」
「防げるかどうかは分かりません」
「じゃあ何で欲しいんですか」
森下は端末の入った袋を見る。
「分からないところを減らしたいからです」
妻は目を閉じた。
「主人もそういう人でした」
机の下で手を握る。
「分からないなら見に行く。危ないなら自分で確かめる。だから救助隊なんてやってた」
森下は待った。
「最後の声、聞けますか」
「はい」
「私だけで」
森下は部屋を出た。
律も出る。
廊下で、森下が壁にもたれた。
「記録、欲しいですか」
「はい」
「私もです」
「はい」
「でも断られたら終わりです」
「終わりです」
森下が律を見る。
「前なら、匿名化とか部分提供とか提案しました?」
「したと思います」
「今は?」
「本人が聞き終わる前に提案する必要はありません」
森下は小さく息を吐いた。
「少しだけ、人みたいになりましたね」
「元から人です」
「そういう返しは変わらない」
◇
二十分後。
吉岡の妻が出てきた。
端末は袋の中に戻っている。
「渡しません」
「分かりました」
森下が答える。
「ただ」
妻は小さな紙を差し出した。
手書きだった。
《B路へ入る前、天井から小石が一つ落ちた》
《真司は気づいていた》
《でも担架を止めなかった》
森下が読む。
「音声に入っていたんですか」
「はい」
「なぜ止めなかったかは」
「分かりません」
妻は袋を抱える。
「声は渡しません。主人のものだから」
紙を指す。
「でも、これなら私が書いたものです」
律は紙を見た。
事実の完全なコピーではない。
遺族が選んだ一部分。
情報は減っている。
それでもゼロではない。
森下が受け取る。
「ありがとうございます」
妻は首を振った。
「主人を正解にしないでください」
「はい」
「間違えたなら、間違えたって残して」
「残します」
◇
安西は紙を読んだ。
小石一つ。
地図には載らない。
確認札なら載せられる。
《落石 小》
ただし、どの程度で撤退するかは人によって違う。
笹木が言う。
「警報にします?」
安西は首を振った。
「観測にする」
「重要度は」
「見た人が付ける」
「統一しない?」
「統一したら、また正解に見える」
律は聞いているだけだった。
森下が紙の一番下へ欄を足す。
《情報提供者の範囲指定》
全文。
一部。
匿名。
使用不可。
救助網は、情報を集める仕組みだった。
同時に、出さない権利を残す仕組みに変わり始めた。
成瀬はその書式を見て言った。
「情報量が減る」
「はい」
森下が答える。
「精度も落ちる」
「はい」
「それで人命を守るのか」
森下は少し考える。
「人命を守るために、人のものを全部取っていいとは思いません」
成瀬は律を見た。
「あなたの教育?」
「違います」
森下が先に答えた。
「自分で決めました」
律は何も足さなかった。
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