第三十六話 警報より、今日の給料
第八層西部の採掘班は、警報を読んでいた。
読んだ上で、現場へ入った。
班長の新堂雅人は四十二歳。
探索者ではない。
坑道補強と魔鉱採取を請け負う作業班を十五年まとめている。
入口で森下が彼の登攀靴を見る。
RH―18。
第七ロット。
靴底の中央に銀色の粉が付いていた。
「使用停止の対象です」
「知ってる」
新堂は靴紐を結び直した。
「交換品は二日後だ」
「二日休めませんか」
「休んだら契約が切れる」
元請けとの出来高契約。
連続二日、採取量が基準を下回れば別班へ切り替えられる。
作業員は八人。
全員、日当制だった。
森下が言う。
「落ちたら、日当どころじゃないです」
「落ちなかったら、今日の給料が出る」
「壊れる可能性があります」
「可能性で家賃は待ってくれない」
律は少し離れて話を聞いていた。
自分が言えば、制度と責任の話になる。
新堂が拒否する理由は、理解できる。
それでも入らせていい理由にはならない。
成瀬が先に口を開いた。
「元請けへ代替班の手配を要求する。二日分の最低保証もこちらで交渉する」
新堂が笑った。
「いつ決まる」
「今日中」
「今日の採掘は」
「止める」
「なら無理だ」
新堂は通行証をかざした。
坑道は閉鎖されていない。
協会の警告も強制命令ではない。
森下には止める権限がなかった。
律にもない。
正式な危険認定には、メーカーの不具合対象番号と現物照合が必要だった。
森下が新堂の前へ立つ。
「せめて別の靴を」
「サイズがねえ」
「私の」
「お嬢ちゃんの二十四半を俺が履くのか」
後ろの作業員が笑った。
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
新堂は森下の肩を軽く叩いた。
「帰ってきたら交換する」
「帰ってくる前に壊れるかもしれません」
「十五年、そういう仕事してる」
作業班は坑道へ入った。
律は止めなかった。
止められなかったという記録だけが残る。
◇
三時間後。
笹木の警報が第五層救助所で鳴った。
『第八層西部、採掘坑道E―6。荷重異常。作業班八名』
安西が端末を引き寄せる。
肋骨はまだ完全には治っていない。
現場出動は禁止されたままだ。
「崩落?」
『不明。地圧計が一基だけ跳ねました』
「一基だけなら故障もある」
『はい』
笹木の声が少し低い。
以前なら、誤報を恐れて言葉を弱めた。
「重要度は」
『高です。確度は低』
安西はそれだけで搬送班を動かした。
「撤退勧告を出す」
成瀬が横から画面を見る。
「坑道を止める根拠は」
「一基の異常と、靴の不具合」
「別系統だ」
「だから確度は低い」
安西は撤退勧告を送った。
返事はなかった。
坑道内の通信が途切れている。
律は立ち上がる。
片瀬が治療室から出てきた。
「行くなら固定具を締め直して」
「現場判断だけです」
「あなたの現場判断は走るところまで含むから言ってる」
久我が短槍を肩へ載せた。
左肩はまだテーピングされている。
「俺も行く」
安西が首を振った。
「久我さんは第七層の退避訓練。代わりはいます」
「誰だ」
「第八層救助班」
「知らねえ連中に任せろって?」
「そのための接続です」
久我の顔が険しくなる。
安西は視線を外さなかった。
「俺が行けないから、俺の知ってる人だけで救助する仕組みを作るんじゃない」
律は久我へ何も言わなかった。
久我は舌打ちし、槍を下ろした。
第八層救助班が先行する。
律と森下は後から現場へ向かった。
◇
E―6の入口は崩れていなかった。
異常は内部だった。
採掘用の仮設足場が一段だけ落ちている。
新堂たち八人は奥にいる。
救助班員が叫ぶ。
「通路は生きてる! ただし右壁が押してる!」
森下が床を見る。
RH―18の靴底片が落ちていた。
新堂のものだった。
奥から声。
「全員いる! 一人、脚が挟まれた!」
律は坑道へ入ろうとした。
第八層救助班の隊長が腕を出す。
「指揮はこっちだ」
律は止まった。
「分かりました」
隊長は安西から送られた搬送図を見る。
右壁の圧迫が進むなら、奥へ入れる人数は三人まで。
救助班二人。
作業班一人。
律は入らない。
森下も入らない。
新堂だけが負傷者の横へ残った。
「俺が持ち上げる」
救助班員が叫ぶ。
「靴を脱げ!」
「片方ない!」
新堂は裸足だった。
壊れた靴を途中で捨てていた。
銀粉の警告は正しかった。
それでも事故の直接原因ではなかった。
地圧で足場が歪み、別の作業員の脚を挟んだ。
新堂は壊れた靴を履き続けたことで転び、救助が一分遅れた。
一分。
脚の圧迫は続いた。
救助班が足場を切断する。
負傷者を引き抜く。
骨盤は無事。
右下腿は潰れている。
片瀬へ状態が送られる。
切断の可能性。
新堂は泥の上に座った。
森下が近づく。
「警報、見てましたよね」
「見てた」
「止まれたかもしれない」
「そうだな」
「なんで」
新堂は答えなかった。
代わりに、負傷した作業員が搬送される背中を見た。
「今日の給料、出ると思うか」
森下は言葉を失った。
新堂が笑う。
「そこからなんだよ。安全って」
翌日。
負傷者の右脚は膝下で切断された。
命は助かった。
新堂の班は契約を失った。
元請けは、安全勧告を無視したことを理由にした。
成瀬が資料を机へ置く。
「警報は正しかった」
誰も頷かなかった。
「でも止まれなかった」
笹木が言う。
成瀬は続ける。
「情報を送るだけでは、人は逃げない」
新堂から一通の申請が届いた。
救助網への参加ではない。
《安全勧告に従った日の最低賃金保証》
律はその紙を長く見た。
人を止めるには、危険を知らせるだけでは足りなかった。
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