第三十五話 壊れる前の遺品
第六層東側の回収所には、死者より先に靴が届いた。
片方だけだった。
踵が潰れ、側面の革が裂け、靴底には細い銀色の粉が噛んでいる。
持ち主は生きていた。
探索者協会の仮設机の向こうで、若い男が靴下のまま椅子に座っている。
「捨てます。もう履けないんで」
森下が確認書を差し出した。
「所有権放棄でいいですか。返却も売却もできなくなります」
「いいです」
男は署名した。
白石律はその横に立っているだけだった。
自分の電子署名は、まだ使えない。
正式な受領確認は、協会から派遣された回収担当が行う。
以前なら、自分で最後まで処理した。
今は違う。
森下が靴を持ち上げた。
「触ります?」
「放棄確認が終わってからです」
「終わってます」
協会職員が端末を見せる。
律は左手で靴底へ触れた。
《廃品回収》
残っていたのは、歩き方ではなかった。
体重が外へ逃げる直前。
靴底の金属板が、ほんのわずかにねじれる感覚。
一度だけ。
「破断の前兆です」
律は靴底を剥がした。
中から、固定板が出てくる。
銀色の粉は削れた合金だった。
製造番号を森下が読む。
「RH―18。第六層でよく使われてる登攀靴です」
椅子の男が顔を上げた。
「昨日、同じ型のやつが落ちましたよ」
「人ですか」
「靴です。足場を踏んだ瞬間、底が割れて。本人は命綱で助かったけど」
同じ場所。
同じ型。
成瀬航は、少し離れた壁にもたれて話を聞いていた。
第四部の実証計画。
第五層北部救助所を中心に、第六、第七、第八層の救助所と回収班が、装備故障と撤退情報を共有する。
共同審査側として成瀬が入っている。
「一件では不良とは言えない」
成瀬が言った。
「同じ型が第六層だけで二千足以上動いている。二件の破損で全停止したら、探索者の方が動けなくなる」
「停止とは言っていません」
律は答えた。
「点検対象にします」
「その点検で何時間止める?」
森下が口を挟む。
「片足三分なら、二千足で百時間です」
「全員を一列に並べる計算ならね」
成瀬は靴を指した。
「情報を共有するのは簡単だ。共有した結果、誰が止まり、誰が金を失うかまで考えないと救助網じゃない」
律は反論しなかった。
第六層の探索者は、止まればその日の報酬を失う。
運搬班が止まれば、下層への物資も遅れる。
装備メーカーへ照会を出している間にも、人は歩く。
笹木から通信が入った。
『第七層南でもRH―18の破損報告。転倒一名。軽傷』
三件目。
成瀬の顔が変わる。
「製造時期は」
森下が端末を確認する。
「全部、去年冬の第七ロットです」
律は靴底の固定板を見る。
古い傷ではない。
金属疲労だけでもない。
中央の穴の周りだけが薄く削れている。
「点検箇所を一つに絞れます」
「何を見る」
「固定板の中央。銀粉が出ているものだけ止めます」
成瀬は数秒考えた。
「それなら三分もかからない」
笹木が共有網へ警報を流した。
《RH―18 第七ロット》
《靴底中央の銀粉を確認》
《銀粉ありのみ使用停止》
反応はすぐ返ってきた。
第六層北。
一足。
第七層中央。
二足。
第八層入口。
五足。
十分で九足。
二十分で二十七足。
製造不良かどうかは、まだ分からない。
ただ壊れる前の道具が、同じ傷を持っている。
森下が最初の靴を回収袋へ入れた。
「遺品になる前に捨てられた物も、役に立つんですね」
律は袋を見た。
死者から返す仕事ではない。
捨てられた物から、次の死者を減らす。
成瀬が壁から離れた。
「勘違いするなよ。今日は二十七足を止めただけだ」
「はい」
「明日、不良じゃなかったと分かったら二十七人分の稼働を止めた責任が残る」
「残します」
成瀬は少し眉を寄せた。
「責任じゃない。損失だ」
その日の夕方。
メーカーから回答が来た。
第七ロットの一部で固定板の熱処理にばらつき。
自主点検。
対象、四百八十六足。
全面回収ではない。
交換部品が届くまで、最長三日。
笹木が数字を読み上げた。
「止まる探索者、最大四百八十六人です」
成瀬が律を見る。
「一人も死なせない仕組みは、一人も止めない仕組みじゃない」
律は壊れた靴を見た。
この靴が死者の足から脱がされていたら、もっと分かりやすかった。
持ち主は生きている。
だから損失だけが先に見える。
翌朝、共有網へ最初の苦情が百件を超えた。
その中に一つだけ、別の報告があった。
第八層西部。
警告を無視してRH―18を履き続けた班がある。
理由。
《今日止まれば、契約を失う》
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