第二十三話 一人を切れば、拠点は残る
最初の患者は、一人で来た。
名前は、海老沢透。
第五層の廃棄区画で、黒針蜂に刺された。
左肩に二か所。
首筋に一か所。
自力で歩いて待避所へ到着した時には、呼吸が浅くなっていた。
片瀬美冬が毒反応を確認する。
「重症です。中和剤を二本使います」
在庫。
二本。
次回補充まで、最短で六時間。
白石律が使用記録を開いた時。
笹木悠斗の通信画面へ、別の救助要請が表示された。
東都ダンジョンサービス契約班。
黒針蜂による集団被害。
三名。
意識あり。
呼吸異常、一名。
全身痺れ、二名。
到着予定。
十二分後。
治療室が静かになった。
海老沢へ二本使えば。
後から来る三人に使う中和剤はない。
一本だけなら。
海老沢の生存率は大きく下がる。
「地上搬送は?」
律が尋ねる。
片瀬が首を振る。
「今からでは間に合いません」
「三人の重症度は」
「現場情報だけなら、海老沢さんより低い。ただし三人です」
一人を救うために、三人の治療手段を失う。
三人のために一本を残せば、目の前の一人を切ることになる。
成瀬航から通信が入った。
『状況は確認しています』
「患者情報へのアクセスを許可していません」
『契約班側の情報です。そちらの在庫も、施設所有者の報告から把握しています』
成瀬は感情を挟まなかった。
『海老沢さんを地上へ送ってください』
「間に合いません」
『ここで治療しても、二本使う』
「はい」
『三人の中和剤がなくなる』
「はい」
『一人を切れば、三人を救える』
治療室の入口に、蓮見紗季と安西孝志が立っている。
誰も成瀬を悪人とは呼ばなかった。
数字だけなら正しい。
中和剤二本。
患者四人。
一人へ二本使えば、残りはゼロ。
『この判断を受け入れるなら』
成瀬が言った。
『当社は待避所の三年契約と、月額運営費を保証します』
治療寝台の優先権は求めない。
危険情報の独占も求めない。
条件は一つ。
救命可能人数が最大になるよう、治療資源を配分する。
「海老沢さんを、救命対象から外せと?」
『三人より救命効率が低い』
律は海老沢を見る。
年齢、四十六歳。
所属なし。
探索者資格、三級。
廃棄区画で、回収業者が置き去りにした工具を集めて売っていた。
契約者ではない。
拠点へ金を運ぶ人間でもない。
海老沢の手が、治療台の端を探る。
「俺は……後でいい」
声がかすれている。
「三人いるなら、そっちへ使え」
本人が言った。
合理的には、決定しやすくなった。
律の左手が一秒止まる。
「判断能力が低下しています」
片瀬が言った。
「毒による低酸素状態です。治療拒否として扱えません」
律は中和剤二本の使用を承認した。
成瀬が尋ねる。
『三人をどうする』
「到着後に処置します」
『中和剤はない』
「はい」
『これで施設が失われても?』
「その損失も記録します」
片瀬が一本目を投与する。
海老沢の呼吸は戻らない。
二本目。
数十秒後。
酸素飽和度が、ゆっくり上がり始めた。
◇
後から来た三人は、予想より悪かった。
一人は意識混濁。
一人は呼吸筋の麻痺が始まり。
一人は歩けるが、舌の感覚を失っていた。
中和剤はゼロ。
地上搬送まで二十八分。
片瀬が薬剤棚を確認する。
「標準処置では、つなげません」
蓮見が治療室の冷却装置を見る。
内部では、妹のライトから生まれた試作機の熱交換器が動いている。
残留魔力を集め。
一定の流れへ整える部品。
「毒を直接消せなくても、魔力回路から引き離せるかもしれない」
蓮見が言った。
黒針蜂の毒は、血液だけではなく魔力経路へ付着する。
中和剤は付着を切り離す。
試作機の吸着膜なら、同じ作用を一度だけ再現できる可能性がある。
「一度だけ?」
「膜を剥がして使う。冷却装置には戻せない」
治療室の冷却を失う。
三人を救えても。
待避所は、継続的な重症患者の受け入れができなくなる。
正式認定の条件も満たせない。
成瀬との三年契約も消える。
「成功率は」
律が尋ねる。
「分からない」
「三人同時に使えますか」
「膜を三分割すれば」
「効果は」
「下がる」
「一人ずつでは?」
「最初の一人に使った時点で、膜が汚染される」
別の選択。
一人へ集中すれば、一名の生存率は高い。
三分割すれば、全員に届くが、全員が不足する可能性がある。
律は片瀬を見る。
「医療判断を」
「三分割」
片瀬は即答した。
「一人ずつの状態は違います」
「はい」
「同じ量にはしません。呼吸麻痺の一人へ半分。意識混濁へ三割。残りを三人目へ」
「二人目が悪化した場合は」
「私が判断します」
律は蓮見を見る。
「設備判断を」
「外す」
「冷却は」
「止まる」
「復旧見込みは」
「正規部品を買うまでなし」
「分かりました」
律は同意した。
自分では触れない。
右腕は固定中。
精密作業は禁止。
蓮見が熱交換器を外す。
治療室の温度維持警告が点灯した。
妹の遺品から盗まれた技術。
それを証拠として守るのではなく。
設備として残すのでもなく。
三人の身体へ使い切る。
◇
吸着膜は、薄い黒色の板だった。
蓮見が三つへ切り分ける。
片瀬が各患者の魔力経路へ接続する。
一人目。
呼吸麻痺。
膜が黒から紫へ変わる。
呼吸数が戻る。
二人目。
意識混濁。
痙攣が始まる。
片瀬は接続位置を変える。
「薬剤追加」
「予算確認は」
律が言いかける。
片瀬が顔を上げた。
「必要です」
「使用してください」
高額な神経保護剤を開封する。
三人目。
舌の感覚消失。
膜の残量が少ない。
毒反応は下がったが、右手の指に麻痺が残った。
三人は地上へ搬送された。
全員、生存。
一人は翌日まで人工呼吸。
一人は三日間の記憶が曖昧。
一人は右手の精密動作に一時的な障害が残った。
完全な成功ではない。
海老沢も生存した。
四人全員を救った代わりに。
待避所の冷却装置は停止した。
重症患者受け入れ。
一時停止。
正式認定審査。
延期。
正規熱交換器購入費。
二百六十万円。
運転可能日数。
八日。
◇
成瀬は、夜に待避所へ来た。
治療室は閉鎖されている。
入口には《軽症処置・通信支援のみ》の表示。
「四人を救った」
成瀬が言った。
「はい」
「施設は失った」
「一時的に機能を失いました」
「同じです」
「違います」
律は修理見積もりを示す。
「戻せます」
「八日で?」
「現時点では困難です」
「では、私の主張を証明した」
成瀬は責める声を出さない。
「全員を救おうとすれば、救助網全体が沈む」
「一件では証明できません」
「次も同じ判断をする?」
「同じ条件なら」
「あなたは管理者に向いていない」
「その可能性があります」
成瀬の視線が、空になった冷却装置へ向く。
「だから仕組みにする必要がある?」
「はい」
「あなたがいなくても、同じ判断をする仕組みを?」
「同じ判断である必要はありません」
成瀬が初めて、はっきり律を見る。
「違う判断を許すのか」
「結果と理由を記録できるなら」
律は壁面へ、新しい役割表を表示した。
治療判断、片瀬。
設備判断、蓮見。
通信判断、笹木。
搬送設計、安西。
現場撤退、久我。
白石律。
所有権・契約・最終記録。
「次の審査で、私は現場判断から外れます」
「失敗したら?」
「私が許可した仕組みとして記録します」
成瀬は契約書を取り出さなかった。
代わりに、一枚の審査通知を机へ置いた。
三十日間試験運用、最終審査。
条件。
管理者不在を想定した救助実施。
「一人を切れば、拠点は残った」
成瀬が言う。
「あなたは切らなかった」
「はい」
「なら次は、あなた自身を現場から切ってください」
律は通知を受け取った。
冷却の止まった治療室で。
誰もいない寝台だけが、四つ並んでいた。
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