第十六話 父の遺品ではない
三浦香織は、古い遺品箱を抱えていた。
第五層北部緊急待避所の面会室。
同席しているのは、警察の事故調査官と、東都ダンジョンサービスの御堂恭介だった。
机の中央には、三重に封印された作業端末が置かれている。
香織は端末を見なかった。
抱えていた箱を、白石律の前へ置く。
「父の遺品として返されたものです」
三浦隆司。
旧補給拠点の設備主任。
公式記録では、三年前の閉鎖事故で管理室内に取り残され、死亡したことになっている。
律は箱の封を確認した。
一度、遺族へ正式に引き渡されている。
現在の所有者は香織だった。
「開封しても構いませんか」
「そのために持ってきました」
香織が答えた。
箱の中には、作業服、工具、認証札、片方だけの手袋が入っていた。
どれも洗浄されている。
それでも、金属と焦げた樹脂の匂いが残っていた。
律は左手で、一点ずつ取り出す。
小型レンチ。
端子抜き。
絶縁工具。
折れた筆記具。
最後に、灰色の作業手袋。
律の手が止まった。
「これが、父の物ではありません」
香織が言った。
「会社には何度も伝えました」
御堂は反論しなかった。
律は手袋を裏返す。
親指の付け根に、赤い糸で補修した跡がある。
既製品の縫い方ではない。
手のひらには、工具を強く握った摩耗。
人差し指と中指だけが薄くなっている。
「お父様の利き手は?」
「左です」
「手袋は右手用です」
「父は右手の薬指が曲がりませんでした。若い頃の事故で」
この手袋には、薬指を繰り返し曲げた跡が残っている。
三浦隆司の物ではない。
律は手袋を蓮見紗季へ向けた。
蓮見は受け取らなかった。
赤い補修糸を見たまま立っている。
「私の」
声が小さくなった。
「その縫い方、私がやった」
香織が蓮見を見る。
「あなたの物が、父の遺品に入っていたんですか」
蓮見は右手を開いた。
親指の付け根に、古い火傷の跡がある。
手袋の摩耗位置と重なる。
「事故の日に失くした」
御堂が遺品引き渡し記録を開いた。
「回収場所は管理室です」
「違う」
蓮見が言った。
「私はその手袋を、低代謝保全室の前で外した」
管理室からは二つの区画を挟んでいる。
崩落後、自由に行き来できる状態ではなかった。
律は箱の中をもう一度確認した。
手袋以外の工具にも、異なる使用痕が混ざっている。
レンチは左利きの摩耗。
端子抜きは右利き。
絶縁工具には、三浦の名ではない刻印を削った跡がある。
一人分の遺品ではなかった。
事故後に回収された物を一つの箱へまとめ、端末の登録名に合わせて三浦隆司の遺品として処理している。
「父の遺体は、見つかっていません」
香織が言った。
面会室が静かになった。
「会社からは、管理室付近の損傷が激しく、回収不能だったと説明されました」
御堂が端末を操作する。
「当時の死亡認定は、入室記録、貸与端末、認証札、現場の遺留品を根拠にしています」
「父は入っていません」
香織は鞄から紙の資料を取り出した。
三年前の入館記録。
地上本社の会議室。
三浦隆司の入室時刻は、午後一時四十二分。
退室記録はない。
事故発生は、その三十五分後だった。
「父は本社の監査会議へ呼ばれていました」
「代理入力の可能性はあります」
御堂が言った。
香織は次の書類を置く。
会議音声の書き起こし。
三浦本人の発言が、午後二時二十分まで記録されている。
救助信号が地上側で確認された時刻は、午後二時十九分。
三浦隆司はその時、地上本社で話していた。
補給拠点の端末を操作することはできない。
「父は事故の四日後に亡くなりました」
香織が続けた。
「本社を出た後に倒れて、そのまま意識が戻りませんでした」
律は香織の手元を見る。
資料の端が、何度も折り直されて柔らかくなっている。
「死亡原因は?」
「脳出血です」
「事故との関連は?」
「認められませんでした」
三浦隆司は補給拠点で死亡していない。
それでも会社の事故記録では、管理室内の死亡者として処理された。
死亡した時点で、本人は否定できなくなっていた。
香織は三年前から記録の訂正を求めていた。
だが、会社は入室記録と貸与端末を根拠に変更を拒否した。
御堂は資料を最後まで読んだ。
「この音声記録は、当時の調査資料にありません」
「提出しました」
「受領記録がない」
香織の口元が固くなる。
「だから、今日持ってきました」
律は遺品箱の中から認証札を取り出した。
三浦隆司の名前。
顔写真。
設備主任権限。
裏面には、貸与端末との対になる識別番号が刻まれている。
「この認証札も、お父様が持っていた物ではありません」
香織が顔を上げる。
「どうして分かるんですか」
「紐が短く調整されています」
三浦隆司の身長は、職員記録では百七十八センチ。
首から下げた場合、この長さでは胸元まで届かない。
端末操作時に読み取り機へ近づけるには、毎回外す必要がある。
一方。
蓮見が自分の首元へ紐を当てた。
認証札は、ちょうど作業服の胸ポケットへ収まる長さだった。
「私は主任の予備札を借りてた」
蓮見が言った。
「事故の一週間前から、自分の認証札が壊れてたから」
御堂が蓮見を見る。
「貸与記録は?」
「申請した。交換が来なかった」
「無断借用ですか」
「主任が貸した」
蓮見は認証札から目を離さない。
「自分は地上の監査に出るから、その日は使わないって」
封印された作業端末。
認証札。
右手用の手袋。
事故現場に残った三浦の名義は、すべて蓮見が使っていた可能性がある。
「では、午後二時十九分の救助信号確認も、あなたですか」
事故調査官が尋ねた。
蓮見はすぐには答えなかった。
「覚えてない」
「配電変更は?」
「結衣の装置を止めちゃいけないと思ったことは覚えてる」
「外部救助通信を切ったことは?」
「分からない」
蓮見の指が、机の縁をつかんだ。
「そこから先が抜けてる」
律は封印端末を見る。
三浦隆司の貸与端末。
実際に使っていたのは蓮見。
だが、操作履歴の末尾番号は、蓮見だけに一致するものではない。
記録削除の承認は、同じ端末で行われたとは限らなかった。
「開封を開始します」
事故調査官が言った。
香織。
御堂。
警察。
三者の電子署名が揃う。
封印が一つずつ解除された。
最後の赤い札だけが残る。
三浦家の遺族封印。
香織が指を置いた。
「父の名前で、何をしたのか確認してください」
赤い札が消えた。
◇
端末の外装は焼けていた。
電源回路も失われている。
蓮見が内部を開く。
記録結晶は残っていた。
だが、半分以上が意図的に砕かれている。
「衝撃じゃない」
蓮見が破断面を見る。
「工具で割ってる」
律は触れなかった。
端末は証拠であり、会社所有物でもある。
《廃品回収》は使用できない。
代わりに、前の廃棄端末から得た一時保存手順を基に、残った領域の配置を示す。
笹木が地上側から遠隔で読み出しを補助する。
最初に復元されたのは、使用者認証。
午後二時十八分。
予備認証札。
識別番号。
三浦隆司。
生体確認。
不一致。
「本人ではないと分かってた」
香織が言う。
端末は、認証札の名義と使用者の生体情報が一致しないことを記録している。
それでも、主任権限で操作は続けられた。
次の記録。
午後二時十九分。
救助信号を受信。
現場側使用者。
蓮見紗季。
名前が残っていた。
蓮見は画面を見たまま動かない。
午後二時二十一分。
低代謝保全装置へ優先配電。
操作。
蓮見紗季。
外部救助通信を一時停止。
操作。
蓮見紗季。
「私が切った」
蓮見が言った。
声に力がなかった。
「結衣を生かすために」
誰も否定しなかった。
あの時点で、電力は足りなかった。
通信を残せば、保全装置が停止する。
蓮見は外部への救助要請より、目の前の一人を選んだ。
午後二時二十三分。
蓮見から地上本部へ、優先配電の承認要求。
応答。
承認。
承認者名は欠損。
午後二時二十四分。
地上本部から新しい指示。
――救助信号の再送信を禁止。
蓮見が顔を上げる。
「そんな指示、知らない」
「端末側では受信しています」
律が答えた。
「あなたが確認した記録はありません」
午後二時二十五分。
中央記録削除。
地上本部権限。
実行。
現場端末からの操作ではない。
午後二時二十六分。
現場使用者、認証解除。
蓮見の操作は、そこで終わっている。
午後二時二十七分。
外部回線、物理切断。
操作位置。
地上本部側中継室。
補給拠点ではない。
「蓮見さんが切ったんじゃない」
笹木の声が通信機から聞こえた。
蓮見は答えない。
画面には最後の記録が残っている。
午後二時二十八分。
地上本部から現場端末へ、短い音声送信。
破損により、ほとんど聞き取れない。
蓮見が音量を上げる。
雑音。
警報。
誰かの荒い呼吸。
その奥から、男の声が聞こえた。
『保全装置を維持しろ』
一度途切れる。
『救助は送らない』
香織が椅子から立ち上がった。
「父です」
御堂が彼女を見る。
「断定できますか」
「娘です」
香織は画面へ近づく。
「父の声です」
事故当時、三浦隆司は地上本社にいた。
補給拠点へは入っていない。
それでも、地上から蓮見の操作を承認していた。
救助要請を送らないよう指示したのも三浦だった。
「父が消したんですか」
香織が尋ねる。
律は記録を確認する。
承認者名は欠損している。
地上本部権限を使った人物と、音声を送った三浦が同一とは限らない。
「分かりません」
「でも、救助を送らないと言った」
「はい」
「結衣さんを隠した」
「結果としては」
香織の指が震えた。
蓮見が立ち上がる。
「違う」
「何がですか」
「主任は、結衣を隠したんじゃない」
蓮見は音声の波形を指した。
三浦の声の後ろに、周期的な警報音が入っている。
地上本社の警報ではない。
旧補給拠点の管理室で鳴っていた、生命維持装置の警報だった。
「この音は地下からしか送れない」
「しかし、お父様は地上にいました」
事故調査官が言う。
「地上にいた主任が、地下の音と一緒に録音されている」
蓮見は端末の接続履歴を開く。
三浦の音声は、地上本部から直接送信されたものではない。
一度、別の中継先を通っている。
接続先の識別番号。
水没端末。
倉庫で見つかった六台の中には存在しない。
律が遺品箱を見る。
箱の底には、削られた刻印の絶縁工具が残っている。
泥を落とすと、わずかに数字が見えた。
中継先と同じ識別番号。
この工具を使用していた人物が、七台目の端末を持っていた可能性がある。
だが、その工具は三浦の遺品箱へ混ぜられていた。
持ち主の名前は削られている。
香織が工具を見る。
「これも父の物じゃありません」
律は透明な証拠袋を開いた。
絶縁工具を中へ入れる。
遺品箱から、所属不明の証拠へ移す。
三浦隆司の遺品として残ったのは、折れた筆記具だけだった。
香織がそれを手に取る。
軸には、細い歯形が付いている。
「これは父のです」
初めて、迷わず言った。
律は引き渡し記録を訂正する。
三浦隆司の遺品。
筆記具、一点。
それ以外。
所有者不明。
三年前に閉じられた遺品袋が、ようやく正しい形へ分け直された。
蓮見は七台目の識別番号を見ていた。
「この番号、知ってる」
「誰の端末ですか」
「水瀬結衣のお父さん」
面会室の外で、通信端末が鳴った。
地上の医療機関からだった。
水瀬結衣の意識が安定し、短時間なら会話できるという連絡だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になった方は、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




