第十四話 北扉を開けるな
『北扉を開けてくれ』
久我の声が通信室へ響いた。
『負傷者二名。片方は意識が落ち始めてる』
入口まで、百八十メートル。
最短経路なら三分。
蓮見紗季は制御盤を見たまま答えた。
「開けない」
『聞こえなかったのか』
「聞こえてる。北扉は開けない」
治療室では片瀬美冬が輸血剤を準備している。
笹木悠斗は通信端末を握ったまま、蓮見と白石律を交互に見た。
律は固定された右腕を身体へ寄せ、北側通路の見取り図を開く。
「理由をお願いします」
「扉の故障じゃない」
蓮見が床へ手を当てた。
低い振動が、靴底を通して続いている。
「北側の天井が動いてる」
笹木が観測記録を表示した。
「十一秒ごとに振動があります。ただ、崩落警報は出ていません」
「遠隔診断は止まってる。残ってる警報器も三年前のものよ」
「北側を使わなければ、東側へ回る必要があります」
律が時間を確認する。
到着まで七分増える。
片瀬が治療室から顔を出した。
「意識が落ちているなら、七分は長いです」
蓮見は制御盤から離れなかった。
「北扉を開けると、通路内の魔力圧が変わる」
「崩落する確率は?」
「分からない」
「開けなかった場合、負傷者の状態は悪化します」
「分かってる」
蓮見が律を見た。
「それでも開けない」
以前なら、最終判断は律が行っていた。
設備担当の意見を聞き、記録と規則を確認し、自分で決める。
その方法で、正しい許可証を持った襲撃者を拠点へ入れた。
律は制御端末へ左手を置いた。
設備停止権限。
蓮見紗季。
三日前に追加された名前が表示されている。
「設備判断は蓮見さんが最終です」
律が言った。
蓮見は一度だけうなずいた。
「久我さん。東側の保守通路へ回って」
『七分増えるぞ』
「北を使えば、戻れないかもしれない」
短い沈黙。
『了解した』
通信の向こうで足音の方向が変わった。
◇
救助要請が入ったのは、九分前だった。
第五層北東区画。
探索者二名。
一人は左脚を瓦礫に挟まれ、出血。
もう一人は自力歩行可能。
笹木は最初の警報を、すぐには鳴らせなかった。
生体反応が途切れていた。
位置情報も三十メートルずれている。
以前、同じ形式の信号を危険と判断し、探索者三組を撤退させたことがある。
結果は、故障した発信器による誤報だった。
笹木の指は、警報ボタンの上で止まっていた。
「どうしました」
律が尋ねた。
「信号が不安定です」
「危険ではない?」
「それも判断できません」
久我が通信画面をのぞいた。
「なら、分からないと送れ」
笹木が振り返る。
「それでは混乱します」
「安全だと黙る方が混乱する」
笹木は警報の種類を選び直した。
緊急撤退ではない。
要確認。
危険未確定。
北東区画を通る探索者へ、迂回を推奨。
笹木は通信を開いた。
「第五層北東区画で不安定な救助信号を受信。危険は確定していません。ただし、安全も確認できません」
久我が救助装備を持ち上げた。
「それでいい」
現場へ向かったのは久我一人だった。
律は右腕が使えない。
安西は地上の病院にいる。
城戸と金獅子は別の依頼中。
残っている搬送要員で、第五層の崩落区画へ入れるのは久我だけだった。
◇
久我の身体カメラに、負傷者が映った。
若い男が、瓦礫の下で叫んでいる。
左脚が太い石材に挟まれ、床には血が広がっていた。
もう一人は壁際に座っている。
防具に大きな損傷はない。
意識もある。
「片瀬さん」
律が呼ぶ。
返事はない。
片瀬は脚を挟まれた男の映像を拡大していた。
止血位置。
皮膚の色。
瓦礫を外す順番。
治療台の準備が、すでに始まっている。
「片瀬さん」
二度目で、片瀬が顔を上げた。
視線が一度、壁へ動く。
安西が作った確認表が貼られている。
――現場へ入る前に、人数を声に出す。
片瀬は映像を縮小した。
「負傷者は二人です」
壁際の男を見る。
「久我さん。歩ける方へ話しかけてください」
『こいつは大丈夫だ。自分で座ってる』
「名前を聞いて」
久我が男の肩へ触れた。
返事がない。
先ほどまで開いていた目が、半分閉じている。
片瀬の声が変わった。
「兜を外して。首は動かさないで」
久我が留め具を外す。
男の顔は青白い。
呼吸が浅い。
腹部の防具を押すと、隙間から黒い血が流れた。
瓦礫に挟まれた男が叫ぶ。
「先に俺を出してくれ! 脚が、脚が潰れる!」
片瀬の手が、輸血剤へ伸びる。
一度止まった。
「久我さん。先に壁際の人です」
『脚の方は出血してるぞ』
「声が出ています。止血帯を締めれば待てる」
片瀬は壁際の男を見る。
「こちらは、あと数分で声が出なくなります」
久我は迷わなかった。
腰に装着していた簡易搬送布を広げる。
壁際の男を寝かせ、腹部を圧迫固定した。
脚を挟まれた男には止血帯を巻く。
「置いていくのか!」
『戻る』
久我が答えた。
『一人ずつ運ぶ。順番が違うだけだ』
最初の搬送が始まった。
◇
東側保守通路は狭かった。
搬送具を広げられない。
久我は負傷者を背負い、壁沿いに進む。
床には水が流れている。
靴底が滑る。
《一点固定》。
久我の右足が、濡れた床へ止まった。
一歩。
能力を切る。
次の足場を確認する。
また一歩。
長く固定すれば、脚が動かなくなる。
久我は必要な瞬間だけ使った。
笹木が通信を続ける。
「十五メートル先、床面に段差。右側は避けてください」
『映像で見えないぞ』
「音が違います」
笹木は久我の足音を聞いていた。
右側だけ、反響が深い。
空洞がある。
「危険確定ではありません」
『それで?』
「踏まないでください」
久我は左へ寄った。
直後、右側の床が小さく沈んだ。
完全には崩れない。
だが、負傷者を背負ったまま踏めば、足を取られていた。
久我は止まらず進む。
「次も頼む」
笹木は返事をせず、音量を上げた。
◇
一人目が東側入口へ到着する。
蓮見はすぐには扉を開けなかった。
「あと十五秒」
『患者がもたない』
「今開ければ、駆動部が止まる」
『十五秒後なら動くのか』
「動かす」
蓮見は補助魔石を手動で接続した。
古い表示灯が赤から黄色へ変わる。
律は患者の呼吸数を見ている。
片瀬は扉の前で待つ。
誰も蓮見を急かさなかった。
「今」
東側入口が開いた。
久我が滑り込む。
片瀬は搬送布ごと患者を受け取り、治療室へ運ぶ。
久我は止まらない。
「次を連れてくる」
水を一口だけ飲み、再び通路へ戻った。
二人目の止血帯は維持されていた。
瓦礫の下から脚を抜くには、持ち上げるのではなく、横へずらす必要がある。
久我は救助用ジャッキを石材の隙間へ入れた。
床が不安定で、土台が滑る。
槍の石突きをジャッキの横へ差し込む。
《一点固定》。
一秒に満たない間だけ、土台を止める。
その間に石材を数センチずらした。
男の脚が抜ける。
久我は固定具を巻き、安西が残した搬送具へ男を載せた。
肩掛け部分には、赤い文字が書かれていた。
――搬送前に、もう一度周囲を見る。
久我が照明を一周させる。
落ちていた予備端末と、男の回収袋を拾う。
その直後。
遠くで、岩が割れる音がした。
◇
北側通路の映像が消えた。
続いて、施設全体が小さく揺れる。
天井から細かな砂が落ちた。
笹木が監視画面を切り替える。
北扉の外部カメラ。
三分前まで通路だった場所が、岩と鉄骨で埋まっている。
北扉を開けていれば。
久我は、そこを通っていた。
蓮見は映像を見なかった。
東側入口の駆動音だけを聞いている。
「戻ってくる」
十九秒後。
扉の向こうから、搬送具の車輪音がした。
今度は蓮見も待たせなかった。
扉が開く。
久我と二人目の負傷者が入る。
片瀬は最初の患者から離れない。
治療室の反対側を指した。
「そこへ。意識と呼吸を確認して、脚の固定は外さないで」
律が左手で補助に入る。
片瀬が止めた。
「右腕を動かさないでください」
「左手だけです」
「管理者の仕事をしてください」
律の手が止まった。
搬送具から離れる。
笹木へ視線を向けた。
「地上搬送を要請します」
「もう送っています」
笹木の画面には、二名分の状態と必要な血液製剤が入力されていた。
律は一度だけ内容を確認した。
修正箇所はなかった。
◇
二人は地上へ搬送された。
一人目は腹腔内出血。
あと十分遅ければ、第五層で心停止していた可能性が高い。
二人目は左脚の骨折と裂傷。
切断は避けられる見込みだった。
補給拠点に残ったのは、血のついた搬送具と、空になった輸血剤だった。
久我は壁へ背中を預けて座り込んでいる。
笹木は通信記録を最初から聞き直していた。
片瀬は二つの治療台を片づける。
蓮見が北扉の制御を完全に切った。
「修理は?」
律が尋ねる。
「しない」
「九十日の試験運用中です」
「北側通路が埋まった。直しても出口がない」
蓮見は停止札へ日付を書く。
「それでも開けろと言うなら、設備担当を外して」
律は停止札を受け取った。
確認する。
左手で署名した。
管理者承認。
その下へ、蓮見が署名する。
設備安全責任者。
二つの名前が並んだ。
通信端末が鳴った。
地上の病院からだった。
安西の顔が画面に映る。
『二人とも着きました』
背後では、医療班が搬送具を押している。
『俺がいない方が、うまくいってませんか』
片瀬が端末を持ち上げた。
「あなたの確認表を使った」
『見ました?』
「見た」
『二人目も?』
片瀬は少しだけ間を置いた。
「見落とさなかった」
安西は何も言わなかった。
画面の向こうで、肩から力を抜いた。
律は日報を開く。
救助者、二名。
地上搬送、二名。
死亡者の欄は空白だった。
署名欄を片瀬へ渡す。
次に笹木。
久我。
最後に蓮見。
四人が署名し、律の端末へ戻ってきた。
北扉の向こうでは、崩れた岩がまだ小さな音を立てていた
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