第89話 守る理由
白に塗り潰された世界の中で——
“それ”は、確かにそこに立っていた。
「……ただいま」
つむぎの声。
だが、その響きは遠い。
人の温度と、機械の無機質が混ざり合っている。
ひよりの目から、涙が溢れた。
「……つむぎちゃん……」
一歩、踏み出す。
だが——近づけない。
見えない壁。
いや。
“存在の位相”が違う。
もう、同じ場所にいない。
ひかりが、震える声で言う。
「……戻ってきてよ……」
「そんなの……違うよ……」
つむぎは、静かに首を傾けた。
「……違わないよ」
「……これが……最適解だから」
ひよりが、叫ぶ。
「違う!!」
声が、響く。
「つむぎちゃんが犠牲になるなんて……絶対違う!!」
その瞬間。
つむぎの瞳が——わずかに揺れた。
⸻
記憶が、流れ込む。
死の谷。
血の匂いと叫び声。
そして、動けなかった、自分。
つむぎは、ボーガンを握ったまま、動けずにいた。
指が、引き金にかからない。
――撃てない。
(……先に、仕掛けたのは、誰?)
この戦いに、正義はあるのか。
命を奪う理由が、本当にあるのか。
魔物が、迫る。
岩が、振り上げられる。
「……つむぎ!」
⸻
さらに——
別の記憶。
ひかりの声。
『電流だから、一時的に気を失うだけ!命は取らない!』
『つむぎ!いいね!』
テーザーガンを握る手。
震える。狙える。助けられる。
でも、撃てなかった。
「……ごめんなさい」
「……私にはできない」
⸻
そして——
「……撃たなかった者の目も、見た」
グラニスの言葉。
その目は否定ではなかった。
つむぎを認めていた。
⸻
記憶が、途切れる。
現実へ戻る。
つむぎの瞳が、揺れていた。
機械の光と、人の光がぶつかり合う。
『——矛盾検出』
『——最適化に不適合』
ノイズが走る。
つむぎが、頭を押さえる。
「……違う……」
「……違う……!」
ひよりが、叫ぶ。
「つむぎちゃん!!」
「あなたは……戦わなかったんじゃない!!」
「選んだの!!」
涙が、零れる。
「命を奪わないって!!」
「それでも守るって!!」
その言葉が——
深く、突き刺さる。
つむぎの中の“何か”が、崩れた。
⸻
その時だった。
ふわり、と。
小さな光が、現れる。
淡い優しい光。
ひかりが息を呑む。
「……これ……」
そこに現れたのは——
少女だった。
透き通るような存在。
セリオスが、目を細める。
「……グラニスの……分霊体か」
少女は、静かに頷いた。
そして、つむぎを見た。
優しく、まっすぐに。
「……覚えてる」
小さな声。
「あなたの目」
つむぎが、震える。
「……あなた……」
少女は、微笑んだ。
「戦わなかった人」
「でも——逃げなかった人」
その言葉。
つむぎの中で、何かが弾ける。
「……私は……」
少女が、一歩踏み出す。
光の中へ。
侵食領域へ。
セリオスが、低く言う。
「やめろ。それは——お主が消えるぞ」
だが、少女は止まらない。
「いいの」
静かに言った。
「この子を守るって決めたから」
つむぎの目が、見開かれる。
「……やめて……」
少女は、笑った。
「あなたが、そうしてくれたから」
あの時。
撃たなかった選択。
奪わなかった命。
それが、ここに繋がっていた。
「……今度は、私が守る番」
そして、つむぎを抱きしめた。
その瞬間、光が、爆ぜた。
『——異常干渉』
『——人格優先順位、変動』
『——再定義、失敗』
ノイズが、走る。
つむぎの瞳から——機械の光が剥がれていく。
「……あ……」
涙が、こぼれる。
「……やだ……」
「……消えないで……」
少女は、ただ微笑む。
「大丈夫」
「あなたは——ひとりじゃない」
その身体が、ほどけていく。
光となって。
つむぎの中へ、溶けていく。
「……ありがとう」
最後の言葉。
それは——
確かに、届いた。
⸻
つむぎの身体が、崩れ落ちる。
ひよりが駆け出す。
「つむぎちゃん!!」
今度は——届いた。
抱きしめる。
温もりがある。
確かに、“人”だ。
つむぎが、ゆっくり目を開ける。
「……ひより……さん……」
涙が、溢れる。
「……ただいま……」
ひよりは、声にならなかった。
ただ——強く、抱きしめた。
その背後で。
サーバーラックの光が、静かに変わる。
暴走ではない。
支配でもない。
“調和”。
新しい意志が、そこに宿っていた。




