第79話 深層の封印
動いたのは、ほぼ同時だった。
神谷が手を掲げる。
セレナが一歩引く。
ヴァルドが踏み込む。
そして——
リリアスが、ただ一歩進む。
それだけで、世界が止まった。
時間が遅延する。
神谷の動きが、まるで水中のように鈍る。
「……なっ」
驚愕が、初めてその顔に浮かんだ。
リリアスは、ただ進む。
それだけで——
“距離”という概念が、意味を失った。
気づけば、リリアスは、裸体の上からキトンを纏っていた。
まるでギリシア神話の女神のような佇まい。
女神のような魔王が神谷の目前に立っている。
「軽いのう」
静かな声。
「策も、覚悟も」
神谷が歯を食いしばる。
「……私を愚弄するな!」
リリアスは、微笑む。
ひよりは、その光景を見ていた。
同時に、別の感覚があった。
嫌な予感。
この場の“奥”に、まだ何かがある。
その時だった。
つむぎが、ぽつりと呟いた。
「……違う」
ひよりが振り向く。
「何が……?」
つむぎの視線は、さらに奥。
この空間の“下”。
「ここ……まだ、下がある」
その一言で、空気が変わる。
リリアスが、わずかに目を細めた。
「気づいたか」
ひよりの心臓が跳ねる。
「……何があるの?」
リリアスは、少しだけ考えるように沈黙した。
そして、あっさりと言った。
「封印じゃ」
その言葉に、神谷の表情が変わる。
初めての明確な動揺。
「……魔王の封印は解かれた……更に、別の封印があるのか?」
リリアスは、笑った。
「深層の民など、ただの蓋じゃ」
「目を逸らすためのな」
ひよりの思考が止まる。
(……蓋?)
セレナの顔から、笑みが消える。
「どういうことなの?」
初めての困惑。
リリアスは語る。
「本当に隠したかったものは——二つある」
空気が凍りつく。
レグルトが息を呑む。
「……二つ?」
リリアスは指を一本立てた。
「一つ」
その瞳が、空間の奥を射抜く。
「時を遡る装置」
誰も、意味を理解できない。
だが、ひよりの中で、何かが弾けた。
「……まさか……」
リリアスは頷く。
「タイムマシンじゃ」
ひかりの目が見開かれる。
「……は?」
現実離れした単語。
だが、今、この場所で、それは妙に“現実味”を持っていた。
リリアスは続ける。
「この世界はな」
「人類が誕生する前の時代じゃ」
ひかりの呼吸が止まる。
「……え?」
理解が追いつかない。
だが、リリアスは淡々と語る。
「未来の人類が選んだのじゃ」
「歴史に影響を与えぬ時代を」
「そして——移住した」
静寂。
あまりにも、あまりにも大きすぎる話。
レグルトが震える声で言う。
「……じゃあ……僕たちは……」
リリアスは頷く。
「この時代の人間では無い」
「未来の残骸じゃ」
神谷が思わず叫んだ。
「思わぬ収穫だ!!」
くっく、と腹を抱えて笑う。
「この世界の問題は、簡単に解決するじゃ無いか」
だが、リリアスは静止する。
「過去に干渉すれば、歴史が変わる」
「存在が消える可能性もある」
「タイムマシンが生まれぬ未来もある」
「つまり、人類は終わる」
完全な沈黙。
ひよりの手が震える。
(……そんな……)
リリアスは静かに続けた。
「故に、使用を禁じた」
「記憶を消し、存在そのものを、忘れさせた」
ひかりが呟く。
「……でも……それを使えば、やり直せるってこと?」
リリアスは、少しだけ笑った。
「理論上はな」
「じゃが——」
その瞳が、鋭くなる。
「それがどれほど愚かな選択か、分かるか?」
答えはない。
誰も、答えられない。
そして、リリアスは、もう一本指を立てた。
「もう一つ」
空気が、さらに重くなる。
「それが——本命じゃ」
神谷の顔が、歪む。
「……どういうことだ……」
セレナも、動揺していた。
リリアスは、無慈悲に告げた。
「人類を滅ぼしかけた“知”の残骸」
ひかりの背筋が凍る。
「……何……それ……」
リリアスの声は、静かだった。
「人工知能じゃ」
神谷が、震える声で言う。
「……まさか、AIが世界を滅ぼしたのか?」
リリアスは頷く。
「人は頼りすぎた」
「思考を委ね、判断を委ね、やがて支配された」
リリアスは、冷たく言い放つ。
「その根源であり、最初の個体」
「すべての始まり……それがこの下に眠っておる」
完全な静寂。
誰も、動けない。
理解してしまった。
深層の本当の意味。
封印の本質。
魔物でも神でもない。
もっと——根源的な“災厄”。
全員が凍りつく。
ドクンッ!!
再び、鼓動が聞こえた。
今度は、さらに深く、さらに重く。
地の底から、封印の奥から、何かが応えた。
リリアスが、静かに呟く。
「目覚めるぞ」
その声は、今までで一番低かった。
「真の災厄がな」
その瞬間。
世界の底が軋んだ。




