第77話 贄と覚醒
氷の奥で、微かに何かが揺れた。
ひかりの呟きが、静寂に溶ける。
「……好き」
その一言は、小さく、だが確かにこの空間に響いた。
そして——
“応えた”。
ドクン。
心臓のような音。
氷の内側から、確かに鼓動が返ってきた。
ひよりの目が見開かれる。
「……今、動いた……?」
ヴァルドも眉を寄せる。
「……反応している」
レグルトが慌てて周囲を見渡す。
「どうすればいいのですか……!? ここまで来たのはいいですが——」
その時だった。
ひよりの脳裏に、あの言葉が蘇る。
『わらわの封印を解く方法は二つじゃ』
『一つは——グランを殺すこと』
『もう一つは——深層へ行くことじゃ』
ひよりは呟く。
「……深層には来た」
視線を氷へ向ける。
「でも……それだけじゃ足りない……?」
何かが、足りない。
決定的な“鍵”が。
その時。
くつ、と小さな笑い声が響いた。
セレナだった。
「ふふ……」
その笑いは、明らかに異質だった。
ひよりが振り向く。
「セレナ……?」
セレナは口元に手を当て、楽しそうに笑っている。
「ここまで来るとは思わなかったわ」
その言葉に、空気が変わる。
レグルトが警戒する。
「何を言っているんです……?」
セレナは肩をすくめた。
「だってそうでしょう?」
「こんな場所に、普通は辿り着けないもの」
その声には、明らかに“何かを知っている”余裕があった。
ヴァルドが一歩前に出る。
「貴様……何を隠している」
だが。
セレナは答えない。
ただ、微笑んだ。
その瞬間——
空間が、歪んだ。
ズレる。
視界が、一瞬だけねじ曲がる。
そして。
「……よくやった」
声。
全員が振り向く。
そこに立っていたのは——
白衣の男だった。
静かな佇まい。
そして——
どこか、この場に“似つかわしくない存在”。
ひよりの心臓が跳ねる。
「……イグナート……?」
男は、ゆっくりと笑った。
「おめでとう、と言うべきか」
その言葉に、リリアスの残した違和感が重なる。
ヴァルドが剣に手をかけた。
「何を企んでいる」
男は、あっさりと答えた。
「復活だ」
その瞬間。
ひかりの背筋に、ぞくりとした寒気が走る。
「……神谷くん……?」
セレナが、くすりと笑う。
「そうよ」
「私はこの人に身も心も捧げたの。裏切る訳無いでしょ」
沈黙。
レグルトが叫ぶ。
「……なっ!?」
「まさか……最初から……!」
神谷は軽く手を振る。
「そう騒ぐな」
「結果的に、お前たちは役目を果たした」
その言葉に。
ヴァルドの目が鋭くなる。
「……騙したな」
低い声。
殺気が滲む。
神谷は笑った。
「騙す?」
「違うな。導いただけだ」
その余裕。
その確信。
すべてが気に食わない。
ヴァルドは剣を抜いた。
「約束だ」
セレナに向かい、一歩、踏み出す。
「その首、貰い受ける」
空気が張り詰める。
だが——
その瞬間だった。
ヒュンッ!!
空気を裂く音。
次の瞬間——
ドンッ!!
衝撃。
ひかりの身体が、前に崩れた。
「……え?」
ひよりの思考が、止まる。
視界が、スローモーションになる。
ひかりの背中に——
矢が、刺さっていた。
一つじゃない。
二つ、三つ——
十数本。
容赦なく、貫いている。
赤が、滲む。
ひかりの口から、かすかな息が漏れる。
「……あ……」
倒れる。
そのまま、氷の前に崩れ落ちた。
沈黙。
完全な静止。
そして——
ひよりの喉から、音が漏れた。
「……ひかりさん……?」
理解が、追いつかない。
何が起きたのか。
なぜ。
どうして。
だが。
現実だけが、そこにある。
動かない身体。
広がる血。
ひよりの手が震える。
「……やだ……」
一歩。
踏み出す。
「ひかりさん……起きて……」
返事はない。
その時。
パキッ
音がした。
全員が振り向く。
氷。
リリアスを閉じ込めていた氷に——
亀裂が走っていた。
神谷が、ゆっくりと口を開く。
「もう一つの方法」
その声は、どこまでも冷静だった。
「それは——」
「生贄だ」
空気が凍る。
レグルトが叫ぶ。
「……何だと!?」
神谷は続ける。
「深層に来るだけでは足りない」
「“対価”が必要なんだよ」
ひよりの目が揺れる。
「……対価……?」
神谷は、ひかりを見下ろした。
「最高の贄だ」
その瞬間。
氷が、さらに割れた。
バキバキバキッ!!
光が溢れる。
中の存在が——
“動く”。
ひよりの中で、何かが切れた。
「……ふざけるなああああああああああああ!!!!」
叫び。
涙が溢れる。
「ひかりさんを……返してよ……!!」
神谷は、ただ静かに見ている。
何も感じていないように。
ヴァルドが、歯を食いしばる。
「……外道が」
だが。
動けない。
氷が、光が、空間が——
すべてが変質している。
ひよりは、ひかりに駆け寄った。
抱き上げる。
「……やだ……やだよ……」
震える手。
ぐったりとした体。
だが——
その時だった。
———
ピロリン。
【talina銀行アプリ】
前回残高
2,827,900円
今回使用額
80,000円
現在残高
2,747,900円
〈使用内訳〉
・レベル4ボディアーマー(軍隊使用モデル)
80,000円
———
久しく聞いてない音。
「え?……」
ひかりの指が、わずかに動いた。
「……え?」
ひよりの呼吸が止まる。
そして。
かすかな声。
「……うるさいなあ……」
ひよりの目が見開かれる。
「……ひかり……?」
ゆっくりと。
ゆっくりと。
ひかりの目が、開いた。
その瞳は——
どこか、光を帯びていた。
氷の中のリリアスと、同じ色で。
神谷の目が、初めてわずかに揺れた。
「……ほう」
興味深そうに呟く。
「なるほど……」
ひかりは、小さく笑った。
「……勝手に死なせないでよ」
その声は弱い。
だが——
確かに、生きている。
そして。
身体に刺さっていたはずの矢がポロポロと地面に落ちた。
矢尻は砕けている。
ひかりはウインクしながらひよりに服の下を見せた。
「ひかりさん……それは?」
「レベル4のボディアーマー、防弾チョッキって言った方が分かりやすいかな?」
「ひかりさん……」
ひよりは泣きながらひかりに抱きついた。
「痛い痛い!……凄い衝撃なんだから!」
「貫通は防げたけど内臓と骨はヤバいことになってる」
次第にひかりの顔が真っ青になってきた。
「任せて!」
ひよりはスーパーポーションをひかりに与えた。
「ありがとう」
回復するひかりの後ろで、氷が完全に砕けようとしていた。
ドンッ!!!
光が、爆発する。
その中心で——
“本体”が、ゆっくりと目を開けた。
世界が、止まった。




