第75話 喰われる存在
世界が、軋んでいた。
ルーメリアの谷の奥。
完全に開いた“それ”の目が、空間そのものを歪めている。
見ているだけで、存在が削られる。
認識が、侵される。
言葉ではない。
理屈でもない。
ただ、“喰われる”という本能的な恐怖が、全員の心を締め付けていた。
⸻
つむぎは動かない。
目の前の異形。
腕を受け止めたまま、一切の揺らぎもない。
だが。
その異形の奥。
谷の底の“本体”が、完全に目を開いた瞬間——
空気が変わった。
いや。
“世界の前提”が、変わった。
⸻
「……来るぞ」
リリアスの声は低かった。
今までの余裕が、わずかに消えている。
ひよりの喉が鳴る。
「何が……」
その問いに答える者はいない。
だが。
次の瞬間。
理解させられた。
ズンッ
音がした。
だがそれは、耳で聞くものではない。
“存在の層”が一段、下に落ちたような感覚。
視界が一瞬だけ暗転する。
そして——
消えた。
「……え?」
ひかりの声が震える。
今、確かにそこにいた。
避難民の一人。
震えながら子供を抱いていた母親。
その姿が——
消えていた。
痕跡すらない。
血も。
音も。
悲鳴すら。
何も残さずに。
ただ、“存在だけが削除された”ように。
ひよりの全身が凍りつく。
「……なに、今の……」
レグルトが叫ぶ。
「どこに行った!?」
誰も答えない。
答えられない。
理解が追いつかない。
リリアスだけが、静かに言った。
「喰われたな」
沈黙。
その一言が、あまりにも軽く。
そして、あまりにも重かった。
「……喰われた?」
ひかりの声が掠れる。
リリアスは頷く。
「そうじゃ」
「存在ごと、な」
その時。
谷の奥の“目”が、わずかに動いた。
ゆっくりと。
次の獲物を探すように。
ひよりの背中に、冷たい汗が流れる。
(これ……ダメだ)
(戦うとか、そういう次元じゃない)
(触れたら終わりだ)
その瞬間。
“それ”の視線が——
ひよりを捉えた。
「っ……!」
呼吸が止まる。
心臓が凍る。
身体が動かない。
逃げなければならないのに。
逃げるという選択肢すら、奪われる。
来る。
ズンッ
その時だった。
「ぽにゃ!!」
甲高い声。
小さな影が、ひよりの前に飛び出した。
白い体。
丸いフォルム。
場違いなほど、愛らしい存在。
ぽにゃ。
その小さな体が——
“それ”の視線の前に立った。
瞬間。
世界が歪む。
ぽにゃの体が、溶けるように揺らぐ。
消える。
そう思った。
だが。
「ぽにゃあああああああああああああ!!!!」
叫び。
次の瞬間。
光。
眩い白光が、爆発した。
全員が目を閉じる。
空気が震える。
空間が裂ける。
そして。
ドンッ!!!!
衝撃。
地面が抉れる。
黒い霧が、一瞬だけ吹き飛ばされた。
ひかりが目を開ける。
「……なに……今の……」
そこにいたのは——
ぽにゃだった。
だが、いつものぽにゃではない。
体が発光している。
輪郭が曖昧。
まるで“存在の密度”が変わっている。
リリアスが、初めて驚きを見せた。
「ほう……」
「それは……面白いのう」
ぽにゃは、ひよりの前に立ったまま。
振り返らない。
「ぽにゃ」
短い鳴き声。
だが、それは、ただの鳴き声ではなかった。
“意思”があった。
ひよりの目が震える。
「……ぽにゃ……?」
その時。
谷の奥の“目”が、再び動いた。
今度は明確な敵意で、ぽにゃを認識した。
ズンッ
再び“喰う”力が発動する。
空間が削れる。
ぽにゃの存在が、歪む。
だが、消えない。
ぽにゃの周囲に、薄い光の膜が展開されていた。
それは、世界の理そのものに干渉する防壁。
リリアスが笑う。
「なるほど」
「守護系統の上位存在か」
レグルトが叫ぶ。
「ぽにゃは……何なんですか!?」
リリアスは肩をすくめた。
「わらわにも分からぬ」
「じゃが——」
一拍。
「少なくとも、“喰われる側”ではないな」
その瞬間。
ぽにゃが動いた。
小さな体が、ふわりと浮かぶ。
そして——
谷へ向かって、一直線に飛んだ。
「ぽにゃ!?」
ひよりが叫ぶ。
止められない。速すぎる。
ぽにゃは、そのまま、“目”の前まで到達した。
巨大な存在と、小さな存在。
対峙。
沈黙。
そして、ぽにゃが、鳴いた。
「ぽにゃ」
次の瞬間、世界が、裂けた。
ギィィィィィィィィィィィィィィン!!!!!
凄まじい音。
いや、“概念の衝突”。
“喰うもの”と、“守るもの”。
相反する力が、ぶつかった。
地面が崩壊する。
空が割れる。
黒い霧が蒸発する。
ひかりが叫ぶ。
「何これええええ!!」
ヴァルドが歯を食いしばる。
「……俺たちの力を超越した世界だ」
つむぎは、ただ見ていた。
静かに、その“本質”を。
やがて衝突が、止む。
ぽにゃは、ふわりと空中に浮かんだまま。
そして、ゆっくりと、落ちた。
「ぽにゃ!!」
ひよりが駆け出す。
抱きとめる。
軽い。
いつもと同じ。
だが——
動かない。
「……ぽにゃ?」
反応がない。
静かすぎる。
ひよりの手が震える。
「……嘘でしょ……」
その時。
谷の奥の“目”が——
ゆっくりと閉じ始めた。
ドクン……
ドクン……
鼓動が弱まる。
黒い霧が、わずかに後退する。
リリアスが呟く。
「……押し返したか」
誰も、言葉を発さない。
ただ一つ、確かなこと。
ぽにゃが助けてくれた。
そして——
ひよりの腕の中でその小さな存在は静かに眠ったままだった。




