第70話 剣聖と深層の手
街道に、重たい沈黙が落ちていた。
地面の裂け目は、すでに閉じている。
だが。
そこに残った黒い液体が、じわりと土に染み込んでいた。
⸻
助けられた子供が、母親に抱きついて泣いている。
「うわあああん……」
母親は何度も頭を撫でた。
「大丈夫、大丈夫よ……」
ひかりはその光景を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
「……間に合った」
ヴァルドの背中を見る。
剣聖。
今、その称号が妙にしっくり来る。
だが。
リリアスの表情は変わらない。
赤い瞳が、地面を見ていた。
「まだじゃ」
その一言。
ひよりが振り向く。
「え?」
次の瞬間だった。
ズズズズ……
地面が震えた。
さっきとは違う。
もっと深い振動。
腹の底に響くような音。
レグルトが叫ぶ。
「来ます!」
そして。
街道のあちこちで、地面が盛り上がった。
「う、うそだろ……」
ルーメリア人の誰かが呟く。
次の瞬間。
バキバキバキッ!!
地面が一斉に割れた。
そこから黒い腕が何十本も飛び出した。
悲鳴が上がる。
「きゃああああ!!」
「逃げろ!!」
腕は人を掴もうとする。
地面に引きずり込もうとする。
だが。
次の瞬間。
閃光。
ザンッ!!
ザンッ!!
ザンッ!!
腕が次々と切り落とされた。
ヴァルドだった。
剣が光る。
人の動きではない。
踏み込む。
斬る。
振り抜く。
まるで嵐。
黒い腕が
次々と宙を舞う。
ひよりが息を呑む。
「凄い……」
つむぎも呆然としていた。
「動きが……空手の形に似ている……」
セレナが低く言う。
「……剣技に武術の動きが完全に融合している。剣体一体とはこの事か」
ヴァルドは一歩も退かない。
迫る腕。
掴みかかる指。
すべて一瞬で斬る。
だが、切り落とされた腕は、地面へ戻っていく。
まるで生き物のように。
レグルトが叫ぶ。
「きりがありません!」
リリアスが静かに言う。
「当たり前じゃ」
「これは本体ではない」
その時だった。
街道の中央。
地面がゆっくりと裂けた。
さっきとは違う。
深い。
黒い。
底が見えない穴。
そこから何かが、こちらを見ていた。
ひよりの背筋に、寒気が走る。
(……視線)
何かがいる。
地面の下に。
リリアスが笑った。
「ほう」
「随分と好奇心旺盛じゃな」
その言葉に、地面の穴の奥で何かが動いた。
ひかりが叫ぶ。
「剣聖!!」
次の瞬間。
巨大な腕が飛び出した。
今までの腕とは違う。
太い。
長い。
まるで巨人の腕。
その腕が、ヴァルドを掴もうとする。
だが、剣聖は笑った。
「遅い」
踏み込む。
剣が光る。
そして。
ザンッ!!!
巨大な腕が、真っ二つに裂けた。
黒い液体が噴き出す。
その瞬間、地面の奥から低い声が響いた。
「……オモシロイ」
全員が凍りついた。
レグルトが震える。
「喋った……?」
リリアスの笑みが深くなる。
「なるほど」
「少し目覚めておるな」
ひよりが思わず叫ぶ。
「魔王様!」
「何なんですか、あれ!」
リリアスは空を見上げた。
黒い雲。
ゆっくりと広がっている。
そして言った。
「深層の住人じゃ」
そして、静かに続けた。
「門が開け奴は……出てくる」
「世界を食いに」
街道に、冷たい風が吹いた。
ひよりは、リリアスを見ていた。
思う。
(この人は)
(全部知っている)
(未来も)
(地球も)
(深層も)
胸の奥がざわつく。
(魔王様は本当に味方なの?)
その時、リリアスが、ふっと笑った。
まるで、ひよりの心を読んだように。
赤い瞳が細くなる。
「安心せい」
「今は味方じゃ」
その言葉に、ひよりの背中を、冷たい汗が流れた。
地面の奥で、何かがまた笑った。




