第52話 虚無の氷原と、失われた王都
剣聖アルディオン・レイスは、タリナ王都へ連行される――
そう理解していた。
だが。
転移魔法陣が展開された瞬間、レグルトは違和感を覚えた。
紋様が違う。
魔力の波長が違う。
あれはタリナ王国へ向かう術式ではない。
光が収束する。
拘束されたアルディオンの姿が歪んだ。
彼の瞳が、何かを悟ったように細められた。
そして。
カーディス・レヴァンテもまた、静かに転移魔法陣へ足を踏み入れる。
「後の処理はお任せください」
そうヴァルド将軍に言い残し、二人は消えた。
向かった先は――
タリナ王国ではない。
アストレア連邦王国。
その事実を、ここにいる誰もが理解していた。
⸻
残されたのは、氷都フロストリアの無残な姿だった。
氷壁は砕け。
塔は崩れ。
兵の亡骸が、白い氷原に散らばっている。
凍りついた血が、黒い花のように広がっていた。
風が吹く。
冷たい。
だが、その冷たさすら、現実味を伴わない。
ひかりは、立ち尽くしていた。
心の中に、ぽっかりと穴が空いたようだった。
虚無。
戦いは終わったはずなのに。
何も、救われていない。
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「……終わった、の?」
ひよりが、崩れ落ちる。
膝をついたまま、動かない。
その手は、血で汚れている。
助けられなかった命の数が、重くのしかかっていた。
つむぎは俯き、拳を強く握りしめる。
唇が白くなるほどに。
レグルトは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
師と呼んだ存在の本質。
均衡という名の蹂躙。
信じていたものが、音を立てて崩れた。
ぽにゃは、ひかりの前に静かに座る。
鳴きもせず。
ただ、じっと見上げている。
問いかけるように。
⸻
遠く。
グランと黒騎士アークレインの姿は、もうない。
転移の痕跡だけが、空に溶けている。
均衡を語る者。
影として従う者。
すべてが、舞台から去った。
後には、瓦礫と死。
そして、生き残った者たちだけ。
⸻
ひかりは、ゆっくりと息を吸った。
冷たい空気が肺を刺す。
その痛みが、思考を呼び戻す。
――違う。
私たちは、何のためにここへ来たの?
はっとする。
「……そうだ」
小さく呟く。
「私たち、魔物化した人を元に戻すために来たんだよね……?」
ひよりが、顔を上げる。
涙で濡れた瞳。
「……実験体」
つむぎが、続ける。
「人の手で作られた魔物……」
研究者の名が、脳裏に浮かぶ。
イグナート・ヴェルドーラ。
禁忌に踏み込んだ男。
人を魔物へ変質させる技術。
そして、逆転の可能性。
「彼を見つけないと」
ひかりの声が、少しだけ強くなる。
「魔物を、人に戻す方法を知らなきゃ……」
戦争でも。
復讐でもない。
それが、本来の目的だった。
⸻
その時。
低い声が、背後から落ちる。
「……王都は壊滅した」
振り返る。
ヴァルド将軍が立っていた。
傷だらけの鎧。
だが、その眼はまだ死んでいない。
「タリナ王国は、すでに魔物の巣窟だ」
静かな宣告。
「王城も、街も……人だったものに埋め尽くされている」
ひよりの息が止まる。
「そんな……」
「生存者が待っているはずだ」
ヴァルドは拳を握る。
悔しさと怒りを押し殺すように。
視線が、ひかりへ向く。
「協力させてくれ」
誇り高い将軍が、頭を下げた。
「このままでは、国が滅ぶ」
「いや……すでに滅びかけている」
氷原に、風が吹き抜ける。
死の匂いを運びながら。
⸻
ひかりは、目を閉じた。
グランの言葉がよぎる。
――世界は優しさだけでは回らない。
だが。
優しさを捨てた世界に、未来はあるのか。
目を開く。
涙は、もう止まっていた。
「行こう」
静かな決意。
魔物に覆われた街。
そして、禁忌の研究。
均衡ではなく。
復讐でもなく。
取り戻すために。
人を、人へ。
そのための旅が、いま本当の意味で始まろうとしていた。




