第45話 違和感
氷の大地に、黒い霧が立ちこめる。
フロストリア。
遠くで氷柱が砕ける音が響く。
ひよりが、必死に呼びかけるが、ひかりは記憶の奥底を彷徨い続けていた。
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応接室。
あの老婦人だ。
だが――
何かが違う。
「黒崎さん、前の商品、分配金の多い商品に変えようと思ってるんだけど」
老婦人の声は穏やかだった。
黒崎は資料を開き、静かに説明する。
「正直に申し上げますと、今解約すると損失が確定します」
ひかりの鼓動が止まる。
止めている?
「分配金は出ていますが、実質は元本を取り崩しています。乗り換えをしても手数料がかかるのでマイナススタートです。目先の分配金だけで判断しない方がよろしいです。長期で持つか、解約するか。ご家族とも一度ご相談された方がよろしいかと」
適切な説明。
乗り換えを強要していない。
家族への相談の提案もしている。
老婦人は笑った。
「でもね、黒崎さん。私はあなたを信頼しているのよ。あなたの成績にもなるでしょ?」
「信頼はありがたいですが、判断はご自身でなさってください。私の成績の事よりも、ご自身の大切な資産を守る事を考えてください」
強引な勧誘は一切行っていない。
むしろ、お客様にしっかりと考える時間を与えている。
ひかりの胸がざわつく。
――あれ?
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場面が歪む。
休憩室。
後輩が言う。
「黒崎さん、あの人また家に呼んでくれたんですか?」
「いや、今日は断った。仕事外で深入りするのは良くない。とは言え高齢で息子は遠方だ。普段は一人で寂しいだろから、時々話し相手になる程度に留めているよ」
声は淡々としている。
軽口はない。
笑っていない。
あの無料喫茶店の記憶はどこだ?
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映像が二重に重なる。
ひとつは、冷酷な黒崎。
ひとつは、顧客に寄り添う黒崎。
どちらが本物だ?
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いちご狩りの場面。
黒崎の手が伸びる。
だが次の瞬間――
映像が揺れる。
本当に腰に触れたのか?
それとも、肩だったのか?
黒崎の口元。
あの時、笑っていたか?
怒っていたのは――誰だった?
神谷の視線。
あの瞬間、ほんのわずかに――
笑っていなかったか?
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ひかりは頭を押さえる。
「……違う」
何が?
分からない。
だが、何かが混ざっている。
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フロストリアの空。
氷の空間に、淡い魔法陣が浮かぶ。
それは精神干渉の術式。
過去の記憶に意味を上書きする魔法。
感情を増幅させ、印象を固定する。
善を歪め、悪を強化する。
――争いの種は、まず心に植えられる。
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ひかりの中で、黒崎の言葉が再生される。
「自分の生活を守れ」
それは本当に搾取の思想だったのか。
それとも――
「守る力を持て」という意味だったのか。
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別の記憶が浮かぶ。
支店の廊下。
黒崎が誰かに向かって言っていた。
「数字だけを追うな。目的を履き違えるな」
その言葉は、誰に向けられていた?
相手の顔がぼやけて見えない。
……あれは……誰?
知っているような気がする。
重要なことが思い出せない。
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心がざわめく。
だがすぐに、冷たい霧が覆いかぶさる。
黒崎は敵。
黒崎は奪う側。
黒崎は――
そうでなければならない。
なぜなら、あの日の恐怖は本物だったから。
震えは本物だったから。
守ってくれたのは神谷だったから。
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遠くで、誰かの声がする。
「記憶は都合の良い物語に変わる」
それは誰の声だ?
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氷の地面に、ひかりの影が映る。
だが影は二つに分かれている。
ひとつは黒崎を憎む影。
ひとつは、何かを疑い始めた影。
《違和感》
それは真実へ向かう、小さな芽。
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遠く、見えない場所で。
誰かが静かに笑った。
優しい顔で。
柔らかな目で。
ひかりの記憶を見つめながら。




