第44話 いちご狩り
黒崎の栄転が決まった。
最年少での異例の大抜擢ポスト。
本店営業本部長。
支店内は祝賀ムードに包まれた。
「さすがですね」
「本当に尊敬してます」
「自分も黒崎さんみたくなりたいです」
媚びた笑顔が並ぶ。
誰も逆らわない。
誰も疑問に感じない。
強い者に従うのが、この組織の風土だった。
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「お祝いに、有志で旅行しませんか?」
取り巻きの一人が提案した。
黒崎本人は一度、遠慮した。
だが、周囲が勝手に盛り上がる。
「日帰りバス旅行です!」
「いちご狩りとバーベキュー!」
いちご狩り。
その単語に、ひかりは一瞬だけ心が揺れた。
行くつもりはなかった。
だが――
「円城寺さん、一緒に行こうよ」
仲の良い女性同僚が腕を引く。
「俺も行くよ」
柔らかな声。
振り向くと、同期の神谷が立っていた。
穏やかな目。
少し不器用な笑顔。
よく仕事帰りにコーヒーを飲み、時折、手紙をくれた。
波長があった。
噂される事はあったが付き合ってはいない。
恋だとは言葉にしなかった。
だが、お互いに分かっていた。
だから――
「……いちご、好きなんだよね」
自分でも驚くほど軽い理由で、参加を決めてしまった。
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当日。
バスの中は酒の匂いで満ちていた。
朝から缶ビール。
ハイボール。
黒崎は最後尾の席。
王のように囲まれている。
「黒崎課長、本当にすごいです!」
「本部でも暴れてください!」
黒崎はうっすらと笑う。
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いちご農園。
ビニールハウスの中は温度管理されており、冬でも暖かかった。
上着を脱いで戦闘体制に入る。
「甘い!」
同僚たちが笑う。
ひかりも口に運ぶ。
赤い果実。
柔らかな甘さ。
ほんの一瞬、すべてを忘れられた。
神谷が隣で言う。
「似合うね、いちご」
「何それ」
笑い合う。
「神谷くんもいっぱい食べなよ。元は取るんだからね」
そう言って、ひかりは次から次へといちごを口に運ぶ。
「ほんと、いちご好きだよね」
黒崎の視線が、ひかりを捉えていることに気づかずに、二人で幸せな時間を過ごしていた。
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バーベキュー会場。
肉の焼ける匂い。
煙。
酒。
黒崎の顔が赤い。
「円城寺」
呼ばれる。
「こっち来い」
周囲が静まる。
ひかりは近づく。
「お前は賢い」
肩に手が置かれる。
強い。
「俺がいなくなったら、誰につく?」
「……」
答えられない。
「神谷か?」
その名に、神谷が顔を上げる。
「黒崎課長、酔ってますよ」
穏やかな声。
「俺は正気だ」
黒崎の手が、ひかりの腰へ滑る。
身体が硬直する。
「やめてください」
神谷が立ち上がる。
「なに?」
黒崎の視線が変わる。
周囲は動かない。
誰も止めない。
未来の幹部候補。
逆らえば銀行員人生は終わる。
「円城寺、お前は分かってるはずだ」
耳元で囁く。
「自分の生活を守るには、誰の側にいるべきか」
指が強く食い込む。
恐怖でひかりの足が震える。
「は、離してください……」
震える弱々しい声。
次の瞬間――
神谷が黒崎の腕を掴んだ。
「やめてください」
静かだが、揺るがない声。
黒崎の目が細くなる。
「……つまらない男だな」
手が離れる。
ひかりは解放される。
だが場の空気は凍ったままだ。
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帰りのバス。
誰もその話をしなかった。
笑い声だけが虚しく響く。
神谷は隣に座り、そっと言った。
「大丈夫?」
「……ありがとう」
それだけ。
それ以上は何も言えなかった。
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黒崎が栄転して数週間後。
神谷は異動になった。
実直で、同期の中でもひときわ優秀な彼だが、本部からの評価は、なぜか芳しくなかった。
そして、静かにひかりの元から去っていった。
手紙は、もう届かなかった。
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暗闇の中。
フロストリアの冷気が頬を撫でる。
黒崎の言葉が蘇る。
――他人より自分の生活を守れ。
それは為政者の思想と同じだった。
自国の民を守るためには侵略もやむなし。
自国ファースト。
弱者は淘汰される。
ひかりの胸の奥で、何かが静かに燃え始める。
あの時、声を上げられなかった自分。
守られた側だった自分。
老後の生活だけを考えて、お金を増やす事だけに執着していた自分。
だが今は違う。
この世界は、やり直しの星。
ならば――
私は、奪う側にはならない。
守る側になる。
億り人を夢見た空虚な自分はもういない。




