第43話 自分の生活を守るためには
暗闇の底に、再び光が滲む。
蛍光灯の白。
無機質な事務室。
乾いた拍手。
「我らが黒崎課長、全国一位だ」
支店長と交わす握手。
拍手が一段と大きくなる。
黒崎。
その名が、ようやく像を結ぶ。
逆光の中に立つ男。
完璧に整えられた髪と隙のない微笑み。
イタリア製の高級スーツ、ゼニアに身を包み、礼をする所作さえ美しい。
「皆さんのおかげです」
謙虚な声音。
だが目は笑っていない。
投資信託契約件数。
預かり資産残高。
手数料収益。
どれも圧倒的。
他の追随を許さない。
だから若くして出世した。
だから銀行に守られた。
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応接室。
向かいに座る小柄な老婦人。
「前回の商品、順調ですよ」
黒崎の声は柔らかい。
「ですが、市況の潮目が変わりました。こちらへお乗り換えいただいた方が、分配金も安定します」
資料を静かに滑らせる。
難解なグラフを噛み砕き、結論を優しく差し出す。
「毎月の受取額が増えます」
分配金。
その響きは甘い。
「黒崎さんがそうおっしゃるなら……」
ペンが走る。
解約。
そして購入。
手数料が発生する。
彼の実績がまた積み上がる。
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数か月後。
「さらに良い商品が出まして」
同じ構図。
同じ流れ。
資産は減っている。
だが月々の入金額は一時的に増える。
資産を取り崩しているだけで、実際は損益が膨らんでいるのだが……。
通帳の入金額だけを見る高齢者は安心する。
元本が減っている事実には、気づかない。
当時は高齢者保護が今ほど確立されていなかった。
純増でなくとも成績は評価されていた。
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黒崎は選んでいた。
一人暮らし。
近隣に家族の気配がない。
苦情の可能性が少ない顧客。
「お子様は遠方ですか」
さりげない確認。
「投資信託は送付される書類が多いんです。かえって分からなくなるので、どんどん処分した方が良いですよ」
親切な助言。
過去の痕跡は、静かに消える。
疑念は、記憶の中だけに残る。
そして記憶は、薄れていく。
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だが時に、想定外が起きる。
「どういうことですか!」
応接室に響く怒声。
別居していた息子。
解約された複数の他行の通帳。
この銀行の普通預金に集められた資金。
ほぼ全額、投資信託へ。
「こんなに乗り換えて、母が理解しているわけがないじゃないか!」
黒崎は微動だにしない。
「投資信託は元本保証ではありません。すべてご理解の上、お母様ご自身のご判断です」
老婦人は黒崎を見る。
「この人は悪くありません。私が決めたんです」
信頼。
それが彼の最大の商品だった。
書類は揃っている。
自筆の署名もある。
取引面談記録も完璧だ。
黒崎に有利な内容の、仕組まれた面談記録。
倫理は書面に残らない。
判断は問題なし。
息子は唇を噛む。
黒崎は静かに頭を下げる。
完璧な誠実さを纏って。
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休憩室。
ドアが閉まる。
笑みが消える。
「バカな老人だ」
低い声。
「損しても俺のことを庇うんだからな。めでたいもんだ」
後輩が笑う。
「休憩室代わりに、あの人の家利用してますよね」
「あぁ、外回りで喫茶店代わりに休ませてもらってるよ。息子は遠方で普段一人だからな。行くと喜ぶんだよ。この間は寿司まで取ってくれたな」
呆れたように言う。
「無料喫茶店、何店持ってるんですか?」
後輩はニヤニヤ笑う。
「さあな、信頼関係さえ築いていれば、損しても俺のこと悪くは言わないからな」
「最高のアフターフォローですね。さすが黒崎さん。勉強になります!」
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ひかりは立ち尽くす。
これは誰の記憶?
私は知らない。
だが、生々しい。
胸の奥に沈めた違和感。
自分もまた、数字に縛られていた。
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事務室へ場面が戻る。
黒崎が近づく。
「円城寺」
威圧的な声。
「顧客の生活より、自分の生活を守れ」
黒崎が、ゆっくりと微笑む。
「お前も、同じ考えだろう?」
「自分の生活を守るには出世と金が必要だ」
その声は、妙に鮮明だった。
「お前、客に老後の話をするだろう?」
年金問題。
物価高騰。
低金利の持続。
老後二千万円問題。
将来の不安。
「老後の不安を語るのは客だけじゃない。俺たちも同じだ」
「むしろ、俺たちの方が過酷だ」
背後に黒い霧が立ち上る。
「だから稼ぐ。あるところから取る。それの何が悪い」
営業成績の数字が、魔法陣のように回転する。
「金を持つ者は、どこかで得をしてきた連中だ。俺は自分の実力で奪い取るだけだ」
視線が突き刺さる。
「なあ、円城寺。お前は分かっているだろう」
声が甘くなる。
「賢いからな。だから目をかけている」
その言葉が、心の奥を抉る。
これは信仰だ。
“自分ファースト”。
“弱者は利用される側”。
その思想は、どこかで見た。
異世界の争いの種の根源にあるもの。
フロストリアで放たれた意識を侵食する魔法が、ひかりの魂を揺さぶり続けていた。




