第42話 凍てつく一撃
祠の裂け目をくぐった瞬間、空気の質が変わった。
雪の匂いが消え、乾いた石の匂いが鼻を刺す。
視界が白から灰へ。
足裏の感触が、氷から石畳へ。
フロストリア王都――その外縁部。
塔の影が、薄く霧に溶けている。
「……着いた?」
ひかりが小さく呟いた、その刹那だった。
空気が裂ける。
耳鳴りにも似た高周波。
「伏せ――!」
レグルトの声が鋭く響く。
同時に、透明な防御障壁が展開される。
だが、遅かった。
先頭を歩いていたひかりの胸元へ、蒼白の閃光が突き刺さる。
鈍い衝撃。
息が奪われる。
世界が、反転する。
「ひかりさん!」
ひよりの悲鳴が遠くなる。
石畳に倒れ込む音。
(冷たい…)
痛みよりも先に、熱が消える。
視界の端で、レグルトが両手を広げる。
「隠蔽結界展開――!」
空間が歪む。
四人と一匹の姿が、空気に溶けるように消えた。
数秒遅れて、黒い外套の影が現れる。
「……消えた?」
低い声。
「何処へ消えた!」
苛立ちが混じる。
だが、気配は掴めない。
やがて舌打ちとともに、足音が遠ざかる。
⸻
「ひかりさん!ひかりさん!」
ひよりが膝をつく。
胸元に焦げ跡。
だが出血はない。
魔力衝撃。
「急所は外れている……けれど」
レグルトの額に汗が滲む。
「魔力が深く、体内奥底まで入っている」
ひよりは震える手で回復薬の瓶を取り出す。
栓を抜き、ひかりの唇へ流し込む。
「お願い……目、開けて……」
液体は喉を通る。
だが、反応はない。
ひかりの呼吸は浅い。
まるで、深い水底に沈んでいるようだ。
「精神層に落ちているのかもしれない」
レグルトが低く言う。
「さきほどの魔法……ただの攻撃ではない」
「どういうこと?」
「意識へ干渉する術式が混ざっていた」
ひよりの胸が締め付けられる。
「誰が、そんなこと……」
答えは出ない。
だが一つだけ確かなことがある。
――狙われたのは、ひかり。
⸻
暗い。
冷たい。
重い。
沈んでいく。
声が、遠くから響く。
ひよりの声。
レグルトの声。
届かない。
もっと、下へ。
もっと、深く。
――その瞬間。
光が差した。
⸻
カチ、カチ、カチ。
規則的な電子音。
蛍光灯の白い光。
乾いた空調の風。
ひかりは、目を開けた。
「……え?」
視界に広がるのは、整然と並んだデスク。
スーツ姿の同僚。
壁に貼られた営業目標。
デジタル時計。
午前8時30分。
ここは――。
「朝礼始めるぞ」
低い声。
聞き覚えがある。
ひかりはゆっくりと視線を落とす。
紺色の制服。
胸元の名札。
円城寺ひかり
「……戻った?」
喉がひりつく。
「元の、世界に……?」
立ち上がる。
足は震えていない。
痛みもない。
胸元に焦げ跡もない。
代わりにあるのは、分厚い営業ファイル。
数字。
ノルマ。
未達成。
「円城寺」
背後から声が掛かる。
冷たい抑揚のない声。
ひかりの背筋が凍る。
「今月の数字、分かっているな?」
振り向く。
そこに立っていたのは――。
まだ、はっきりとは見えない。
逆光で、顔が影になっている。
だが、分かる。
あの威圧。
あの圧迫感。
心臓を鷲掴みにされるような感覚。
ひかりの指先が白くなる。
――ラスボス。
頭に靄がかかって名前が出てこない。
「返事は?」
低く、静かに。
逃げ場のない声。
「できるんだろうな!」
ひかりの喉が動く。
「で、できませ…」
言葉が出ない。
「返事は『はい』か『いえす』だろ!!」
ここは現実か。
それとも、意識の底か。
だが一つだけ、確かなことがある。
この男と、何かが繋がっている。
フロストリアで放たれた、あの魔法。
意識へ干渉する術式。
胸の奥がざわつく。
「円城寺!!」
再び、名を呼ばれる。
その瞬間――。
遠くで、ひよりの声が重なった。
「ひかりさん!」
世界が、わずかに揺らぐ。
蛍光灯の光が瞬く。
上司の輪郭が歪む。
ひかりは息を呑む。
これは夢ではない。
誰かが、ここへ引きずり込んだ。
意識の深層。
記憶の牢獄。
そしてその中心にいるのは――。
目の前の男。
ひかりの社畜時代を支配した存在。
かつて抗えなかった男。
フロストリアで、彼女だけを狙った魔法。
偶然ではない。
この世界と、あの世界は繋がっている。
ひかりは、ゆっくりと拳を握った。
逃げない。
もう、逃げない。
だが――。
意識が再び、闇へ引き込まれる。
蛍光灯が砕けるように消えた。
世界が、暗転する。
ひかりは深い底へと、再び沈んでいった。




