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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第二部 鵺 (十七)

 息をするのも憚られるような緊張感が漲り、文九郎は見ているだけで息が切れそうになった。ごくりと唾を飲み込んだ瞬間だった。

 二人は同時に動いた。動いたと思ったら、あっという間にすれ違っていた。

 二人の持つ得物が複雑に絡んだと感じたが、文九郎は見極めることができなかった。

 川村は刀を横凪ぎの形で動きを一瞬止めただけで、すぐに正眼に戻しながら権七に向き直った。

 権七のほうは文九郎の方に向いていた。悔しげにその顔が歪み、脇差を落とした。その右手から何かがポタポタと滴り落ちた。血だ。

 権七は右手を左手で抑えながら跪いた。悲鳴はもちろん、うめき声も出さなかったのは、剣士の矜持なのか。

「それだけの剣術の腕があったなら、士官は難しくとも、師範代なり、用心棒なりで飯は食えたろうに」

 川村はそう言うと、懐紙で血糊を拭き取り、刀を鞘に戻した。慣れた手際の良さだった。

 文九郎は格好いいじゃねぇかとつい思ってしまった。それから、慌てて止血して縄で動きを封じようと権七に近づいた。

 権七は文九郎は無視して川村に向かって口を開いた。

「ふん。師範代も用心棒も、腕よりツテの世の中じゃないか。そのうえ礼金だの支度金だのと金が要る。後ろ楯も金もない奴は干される。俺のようなのがつける仕事は、結局人足仕事くらいだ。朝から晩まで必死に働いても、日々暮らすのにかつかつだ」

 それは文九郎の毎日でもある。

 確かに貧しい。人足はきついわりには給金が安い。しかし日雇いであるがゆえに、武士やお店の勤めと違って()()()()がない。その点は良い点だと文九郎は思っていた。

 そうして権七がどう思っていようと、人足仕事は公に必要とされる仕事だ。恥ずべきことは何もない。文九郎はそう思っていた。権七の言いぐさに黙っていられなかった。

「権七さんよ、あんた、盗っ人が人足仕事より上だってのかい?馬鹿云わねぇでくれ。盗っ人は盗っ人だ。元お武家のあんたにはつまらねぇ仕事に思えるかもしれねぇが、人足は誰かがやらねぇといけねぇ仕事だ。盗っ人は、そんなもん世の中にいらねぇと、真っ当な連中は皆が思ってらぁ」

 川村が笑みを浮かべた。

「文九郎様の器量がわかったか?お主よりもよっぽど器が大きい」

 文九郎に縛られた権七はふんとそっぽを向いただけだった。

 やれやれと文九郎が思うまもなく、視界の隅で綾音が権七が落とした脇差を手にするのが見えた。

 その雰囲気に考えるより先に文九郎の身体が動いていた。

 綾音が脇差を己に向けた瞬間、なんとか文九郎と川村がその腕を抑えることに成功した。

「姉ちゃん、何考えてんだ!なんでだよ!」

 文九郎は綾音の手から脇差をもぎ取りながら、叫んだ。

 川村が速やかに文九郎から脇差を受け取り後ずさった。

 文九郎は急いで綾音が帯に指している袋に入った懐剣も手に取り、後ろへ投げた。

 綾音の顔は能面だった。感情が消えていた。

 芝神明で甦ったと思ったあの表情は、どこへ消えたのか。なぜ、そんなにも死に取り憑かれているのか。

 先ほどの綾音の言葉にも、文九郎は理解できないでいた。

 ――爺ちゃんなら、分かるんだろうか?

 そう思った時だった。

「僭越ながら、あっしには少うし、わかりやすよ、御姫様」

 太吉爺さんの声がした。


 文九郎は飛び上がりそうになるくらい驚いた。あまりに絶妙の登場だった。

 呆然としている文九郎の横に太吉爺さんがのっそりと現れた。

「失礼しやすよ」

 そう言うと、太吉爺さんはしゃがんで綾音の手を取った。

「こんなになるまで我慢なさったか……御姫様だって、もっと口に出していいんですよ。お家のために自分を見失うなんて、あっちゃならねぇこった。あっしはそう思いやすよ」

 文九郎が初めて聞くような、太吉爺さんの穏やかな声だった。

「思いやりのあるお言葉をありがとうございます。でも、もう疲れました……何をやってもうまくいかないのはわたくしのせいなのです。わたくしの人を憎む気持ちが招いているのです。結局は、周りからすれば、ただの我が儘です」

 文九郎は芝神明でも綾音が大泣きしながら同じようなことを言っていたのを思い出した。

 そんなことないと今度も文九郎は言いたかった。そんなことないってことになんで拘るんだと言いたかった。

 だが、太吉爺さんがじろりと文九郎を見た。余計なことを言うんじゃねぇという目だった。

 太吉爺さんはすぐに文九郎から綾音に目を戻すと、暫く無言で見つめた。

「何があったんです?さぁ、言ってみなせぇ。これでも町の衆の揉め事に三十年以上、関わってきやした。お武家様のこともそれなりにいろんなことを耳にし、この目で見てきやした。年寄りの知恵ってのを信用してくだせぇ」

 綾音が顔をあげた。綾音もすぐには口を開かず、暫く太吉爺さんを見つめていた。それから、ゆっくり話し始めた。

「覚えている限り、わたくしなりに努力してきました。次から次へと起こることにきちんと対処してきたつもりです。でもお祖母様の期待に沿うような結果にはなっていないのです。相手のお顔も知らずに嫁いだ稲葉家でしたが、圭之助様とお会いした時は、大袈裟に聞こえるかと思いますが、それまでの苦労が報われたような、わたくしが生まれてきたのは、あのお方と出会うためだったのだとさえ思いました。な、なのに……」

 そこで言葉をつまらせた綾音は太吉爺さんが軽く握っていた手を振りほどき、その手で顔を覆った。必死に気持ちを抑えている。そう文九郎は思った。

 ――言ってしまえよ!あの稲葉の婆ぁがぶち壊したって!なんで言ってしまわないんだよ!武家の娘だから?それが新見の婆さんの教えだから?そんなのクソ食らえだ!

 文九郎は心の中で叫んでいた。もどかしかった。爺さんがいなかったら、口にしていた。

「そのうえ、圭之助様はあのようなことに……まさか鵺の声で鳴く化物の装いで……それを知ったとき、わたくしにも咎があると思いました」

 やはり綾音は圭之助の辻斬りに責任を感じていた。

 文九郎はそんなわけあるかと言いたかったが、太吉爺さんはただ頷きながら綾音の話を聞いていた。

「新見の御屋敷に戻って間もなく、主馬が不治の病に倒れました。わたくしが元凶のような気がしました……何人ものお医者様に診てもらい、祈祷もしていただきました。けれど、どうにもならず……そうして、今朝、とうとう主馬が亡くなりました」

 綾音の言葉に文九郎は驚いた。

「今朝、新見の御屋敷に行ったけど、おまささんは何も言わなかったぜ」

「口止めしているからです。主馬が亡くなったことは暫く伏せておかねば……」

 綾音の肩の震えが大きくなった。

 文九郎には主馬が兄という実感はないが、綾音にしてみれば、同じ屋敷で育ってきた弟だ。いくら覚悟していても、死んでいくのを看取るのは、辛くてたまらなかっただろう。それが人というものだ。……ということを文九郎に教えたのも太吉爺さんだったかもしれない。

 そんな綾音が抱えている辛さを自分は何もわかっていなかった。文九郎は素直に反省した。

 しかし、その辛さから死のうという気になるとは、文九郎には思えない。

「そうでしたかい。とうとう主馬様が……大奥様は口しか動かさねぇお人だ。御姫様が新見家を支えてらっしゃるんですな。決して表に出ることはなく、面倒なことはすべて背負(しょい)いこんで。なかなかできることじゃねぇ。そして、これからがまた大変だ。お疲れになるのも無理はねぇ。あっしにしたら、御姫様は素晴らしいお人だ。文九郎に御姫様の一厘でいいから、見習ってもらいてぇもんだ」

「悪かったな。御姫様と違って、俺はあんたの孫だからな」

 文九郎の茶々は聞こえなかったかのように太吉爺さんは綾音に語り続けた。

「御姫様は身の回りに起こってしまった悪いこと、うまくいかないことをご自分のせいになさってるが、そいつは違いやすよ。世の中、大抵のことは思うようにいかないんでね。たまに良いことがあると、次には悪いことが起こる。人生なんてそんなものだ」

 良いことがあると悪い事が起こる。爺さんがいうと説得力があると思いながら、文九郎は聞いていた。

 御用聞きとしては成功したと言える太吉だが、妻も娘も早くに失っている。特にお文が二十五の若さで逝ってしまったことは相当堪えたらしい。六つだった文九郎は、当時のやつれた祖父の姿をよく覚えている。


 綾音は手で顔を覆ったままだ。だが、太吉爺さんの言葉に耳を傾けている。文九郎にはそれがわかった。

「もう疲れたとおっしゃいやしたね。これからもそんな人生が続くなら、もう嫌だと思ってるんでやしょうね。けどね、そんなときに一番しなきゃいけねぇことは、休むことなんですよ。思いきる前に、一度ゆっくりしてみなせぇ。ここんとこ、よく眠れてねぇんでしょう。そんな時にことを急くこたぁねえんだ。御屋敷では休めないってんなら、別んところへ行きなせぇ。その辺はあっしがお手伝いできるかもしれやせん」

 文九郎が昔から不思議に思っていたことだが、太吉爺さんは決して人に「気にするな」とか「元気を出せ」、「踏ん張れ」といったような、よく言われる励ましの言葉を口にしない。前にわけを尋ねたら、一言、「そんな月並みな文句はな、元気な奴と道を踏み外してねぇ奴にしか言っちゃいけねぇんだよ」と返ってきた。

「なぁ、綾音様、お家がお取り潰しになるからかい?奥女中つとめしないといけないのが嫌だから?だって、神明様へお参りしてからは、姉ちゃん、死んだ魚の目じゃなくなってたのに……」

 文九郎は太吉爺さんが言葉を切った瞬間に口を挟んだ。

 太吉爺さんが文九郎を睨んできた。

「人はそんな簡単にガラリと変われねぇよ。おめぇはなんにもわかってねぇんだから、黙ってろ」

「なんにもわかってねぇって、決めつけるなよ!」

「ほら、わかってねぇこともわかってねぇんだ。薬のつけようもねぇ。御姫様も大変だ」

 文九郎はこんなところで孫の悪口言わなくたっていいだろうと、さらに腹が立った。

「だって、お家がつぶれるってのは、大きなことじゃねえか。主馬様がお亡くなりになったことを隠してるのは、末期(まつご)養子ってんだっけ、なんとかそれをやろうとしてだろ?」

 綾音は何も言わず、川村は身動ぎしただけで、沈黙が起こった。先ほどとは違う、どこか妙な沈黙だった。

「じつは……既に文九郎様を嫡子として届け出てはいるのです」

 川村の場違いに感じたくらい、落ち着いた声が聞こえた。

「へっ?」

 文九郎は驚き過ぎて、口から出たのはそれだけだった。



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