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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第二部 鵺 (十六)

 

 文九郎は綾音の言ったことがすぐには理解できなかった。さっきからそんなことばかり起きている。

 夜の林に広がった沈黙は一段と重かった。

 重たい沈黙を破ったのは、川村に捕まえられ、こちらに引きずられてくる三之助のすすり泣く声だった。その声にやっと文九郎は声を出せた。

「稲葉の圭之助様が、あの辻斬り?」

「そうです……そうだったのです……」

 綾音が文九郎の腕から手を離し、そこに座り込んだ。

「どういうことだよ!じゃあ圭之助様を斬ったのは?」

「三之助殿です。兄の凶状を止めようと、お家のためと、実の兄を斬ったのです」

 綾音の声が聞こえたらしい三之助が悲鳴をあげた。

「でも、斬り口が……」

「三之助殿は兄である圭之助様の癖をよくご存知です。あえて兄君の癖を真似たのです。辻斬りの正体が永遠に闇に葬られるように……」

「じゃあ、狙いどおりにことが運んだんじゃねぇか。なんで三之助様はあんな風になっちまったんだよ!」

「その大きな秘密ゆえ、です。お家のためと行ったことだけれども、実の兄を斬ったこと、その兄が冷酷な辻斬りであったという事実を一人で抱えていられなくなっているのです」

 文九郎はまじまじと綾音の顔を見た。

「そんな風に落ち着いていられるなんて、姉ちゃんは圭之助様が辻斬りだって、いつわかったんだい?夫婦だった頃に危ない目にあったのかい?何か兆しのようなことがあった?」

 綾音はかぶりを振った。

「ひょっとしてと思ったのは、文九郎が辻斬りは化物を模した格好をしていたようだと申されたときです。通夜の時の三之助殿の尋常でない様子が思い出されて……間違っていて欲しかった……」

 そこで綾音は文九郎から目をそらし、遠くを見た。

「圭之助様はわたくしには優しい旦那様でした。似た者同士でしたから。やっと巡りあった似た者同士だったのですから。ですが、いと殿はかなり辛い目にあっていたようです」

「似た者同士だって?」

「二人とも心の奥にひとには言えない残虐な心持ちがあったのです」

「残虐な心持ち?でも、姉ちゃんは魑魅魍魎の絵を集めていただけで、庭に迷い込んだ生き物に優しかったって、おまささんが言ってたぜ。嘘だってのかい?」

「わたくしが憎んでいるのはひとですから。犬や猫や小鳥ではありません」

 憎んでいるのはひと。

 そういった綾音は無表情だった。

「圭之助様はひとだけでなく、犬や猫や鳥も憎んでいたってんですか?」

 文九郎の頭の中は疑問が増える一方だった。

「圭之助様が本当に殺したいほど憎んでいたのは、お母上様だったと思います。ですが、お母上様に刃を向けることはできず……」

 文九郎は一瞬耳を疑った。次には怒りが一瞬で膨れ上がった。頭に血が昇るどころではなかった。

「代わりに何の関係も罪もねぇ、町人を斬ったってのかよ!ますますもって許せねぇ!しかもわざわざ鵺の声で鳴く化物のかっこしやがって!」

 文九郎は言葉を地面に向かって吐き捨てた。相手がもうこの世にいないとなると、膨れ上がった怒りの矛先をどうしたら良いのかわからない。

「ええ、圭之助様が手を染めてしまったことは、決して許されることではありません。ですが、わたくしも……わたくしも、お祖母様を殺したいと思う気持ちをずっと抱えています。わたくしは他の誰かを傷つけるなんてできなくて、お祖母様を殺したいとまで思う自分が恐ろしくて……」

 ――自分の手を傷つけていたっていうのか?いや、手だけじゃねぇんだな……

 文九郎は綾音の殺意の告白に暫し沈黙した。稲葉の大奥様に殺意を感じるならまだしも、いくら叱られてばかりであっても、育ての親でもある祖母を殺そうとまで思う気持ちが文九郎には考えられないことだった。

 ――あの婆さんは知らず姉ちゃんをそこまで追いつめていたってことか……圭之助様も実のあの大奥様に追い詰められていたってのか?けど、それでなんで罪もねえ、所縁のねぇ人が殺されなきゃなんねぇんだよ!なんなんだよ、それ!

 確かに儒教が広められたこの時代、親に刃向かうことは他人を傷つけるよりも重罪とされていた。もちろん他人を殺しても死罪になるが、親を殺したとなると、晒し首などの付加刑がつく。

 文九郎はあまりに理不尽だと思った。稲葉母子のどちらも赦せないと思った。


「圭之助様がどうして鵺の声で鳴くあの化物を模した姿で冷酷な辻斬りを行ったのかは、わたくしにもよくわかりませぬ。圭之助様も化物、魑魅魍魎の絵や話を集めておられましたが、あの化物がお好きというわけではなかったのです。わたくしが幼い頃に好きでその絵を集めていたと申したら、お笑いになりました。では、そなたのために、あれを描かせて掛け軸にしようと仰ったくらいです。魔除けになるかもと……」

「魔除け?」

「もちろん冗談で仰ったことです。お母上様に見つからずにできることではありませんでしたし」

 ――『魔除け』って、あの母親避けってことか?

 そう思った直後、文九郎の頭に圭之助が辻斬りに鵺の声で鳴く化物の格好をした理由が浮かんだ。無理やり別れさせられた綾音への思いが歪んだ形で出たのではないかと。しかしそれを綾音に言うのは憚られた。綾音が辻斬りに責任を感じてしまう。


「わたくしの思うに、最初から鵺の声で鳴く化物を模した扮装はしていなかったと思います。きっかけは思わぬことだったのだろうと……確か、最初の頃に斬られたお人は無宿人だったのですよね?」

 綾音の確認する調子に文九郎は頷いた。

 おそらく綾音の言う通りだと、文九郎は思った。

 何があったかは知らないが、ある時、圭之助は憤怒に任せて浮浪者を斬った。それを誰にも見咎められなかったことが、次の斬殺に繋がってしまったのだ。身分社会のこの時代では、残酷にも、無宿人や浮浪者の殺しは軽く扱われがちだ。猿の口面は二人目か三人目以降でつけはじめた公算が高い。


 文九郎が綾音にかける言葉に迷っていると、三之助が甲高い声で叫んだ。

「兄上は、義姉上と一緒になって変わった。俺はほっとしたのに!嬉しかったのに!母上ときたら、全く真実を見ようとせず、義姉上を邪険にして……兄上が自分よりも義姉上を大事にしたからなんだ!そんなことで……義姉上と離縁させられてからの兄は、次第に残虐なことをなさるようになり、いと殿にも手をあげるようになり……だがまさか辻斬りまでなさるとは思ってもみなかった……違っていて欲しかった……」

 三之助は両手で顔を覆い号泣し始めた。


 文九郎は圭之助の死に顔しか見ていない。体格も知らない。

 確かにあの夜以降、辻斬りは出ていない。

 そうして圭之助の亡骸には、それまでの七件の被害者にはなかった二太刀目の傷があった。

 しかしあの走る時の癖もそうだと言われても、文九郎にはまだ綾音の言葉を信じきることができなかった。

「けど稲葉家のあの今の庭のあり様は、三之助様の仕業だろう?」

「確かに圭之助様が亡くなったあと、三之助殿も庭で刃をふるいました。けれども、それ以前に庭の木々を切っていたのは圭之助様だったのです」

「何年も前に犬や猫の死骸があったのは、全部圭之助様の仕業ってことか……」

「そうです」

 文九郎の頭に閃いたものがあった。

「ひょっとして、林様は気づいてたんじゃねえか?圭之助様が辻斬りをしていることに……」

「舟を……舟を使ったあとがあったそうです。辻斬りのあった翌朝に。林様は圭之助様に舟の扱いを教えたことがあったから、舟を動かしたのは圭之助様ではないかと……三之助殿は一度舟に乗せたことがあっただけで棹や櫓の扱いを教えたことがなかったから……」

「それだけ?」

「圭之助様の危うさにも気がついておられました。あそこまでの凶行に及ぶとは思っておられなかったそうですが」

「林様も危うさを感じていたような奴と夫婦で五年暮らしてて、本当に優しい旦那様だったのかい?本当に何もなかったのかい?俺には信じられねぇよ!」

「文九郎にはわからないでしょうね。わたくしや圭之助様、三之助殿がどのような心持ちで生きてきたか。頭の上に重たい石があるような……真綿で首を絞めらているような……何も思うようにできず、身動きできなくなり、本当に何もかもうまく行かなくて……世の中を恨むか、自分が嫌になるか……そんな思いに苛まれているのが、自分だけではないと知った時の安堵がどんなに大きいか……」

 綾音は無表情のままだったが、その頬を涙が流れていった。

 文九郎は綾音を抱きしめたい衝動にかられた。しかし、それが綾音の望むことでも、助けになることでもないとわかっていた。文九郎には理解できていないからだ。理解できていない人間がしようとすることは大抵間違っている。

 ――そう俺に教えたのは……そうだ。爺ちゃ……

 その時、文九郎は後ろに人の気配を感じた。


「危ない!」

 綾音が叫ぶと同時に文九郎を両手で突き飛ばした。

 刃唸りが追いかけてきた。

 文九郎は咄嗟の判断で横向きに草むらに倒れこんだ。視界の隅に見えた光景は、刀を振り下ろした頬かむりしている男だった。

 権七だ。月明かりでも文九郎にはわかった。

 ――どうしてここで……

 考えている場合ではなかった。

 綾音が権七の足にしがみついた。

「文九郎、逃げて!」

「このアマ!邪魔するな!」

 権七の凄んだ声が月夜に響いた。刀を綾音に向けようとした。

 文九郎はすぐに立ち上がった。

「姉ちゃんに手を出すな!」

 川村の気配が滑るように近づいてくる。

「綾音様にも文九郎様にも手はかけさせぬ!」

 その声と同時に権七が怯んだ。小柄が権七の右腕に刺さっていた。

 文九郎は権七が怯んだ隙に体当たりを喰らわした。体当たりを喰らわしながら、手から刀をもぎ取った。

 もぎ取ったと思ったら、文九郎の身体は宙返りしていた。草むらに仰向けに落ちた。

 権七にひっくり返されたのだ。柔術もなかなかの腕らしい。

 文九郎は刀を遠くへ放り出し、急いで立ち上がろうとした。

 その目の前で火花が散った。

 権七が脇差を文九郎めがけて抜いたのを川村が刀でそらしたのだ。

 事態を把握した文九郎の背筋を冷たいものが走った。

 権七は文九郎を殺す気だ。本気だ。それほど恨まれているとは思っていなかった。あの武家屋敷に連れ込む時の、人足仕事で世話になったから手荒な真似はしたくないというのは、おとなしく従わせるための方便だったらしい。


「なんでこんなやつを庇う?」

 権七が呆れた口調で言った。文九郎ではなく、川村に向けた言葉だった。

「某の役目だ」

「五百石もの旗本の値打ちのわからんこんな戯けた奴に庇う価値があるのか?」

「ある」

 川村がきっぱりと返した。

「何があったかは知らぬが、盗賊に身を落としたお主が文九郎様の価値を云々することこそ笑止千万だ」

 その会話のうちに脇差と刀で二人は対峙していた。

 川村は文九郎の前に立ちはだかっていたから、その表情は文九郎に見えなかったが、背中からも剣士の気が感じられた。正眼に構えているようだ。

 権七はやはり脇差を片手持ちの正眼に構えている。

 二人が放つ殺気に空気が刺々しく感じられた。

 文九郎は辺りに広がっていく殺気に動けなかった。

 綾音も同じらしく、上体を起こした姿勢からじっと二人を見ている。

 少し離れた所にいるはずの三之助もおそらくそうなのだろう。気配すら感じられなかった。


 二人の剣士が対峙して発する気は凄まじかった。負けは剣士としての死を意味するのだろう。死は免れても、大怪我を負えば、再び刀を振るうのは難しくなる。腕に自信のある者ほど負けることに強い屈辱を感じる。

 ことに盗賊として危ない橋を渡ってきた権七の放つ気は荒みきった凄みがあった。

 文九郎は鳥肌がたった。

 心の中では川村が勝つことを願っていた。刀の分、川村が有利に見えるが、権七は小太刀の名手かもしれない。

 じりじりと二人は僅かずつ足を動かしていた。

 真剣勝負はたいてい一太刀で決まると聞いたことがあった。

 文九郎は手に汗握って剣士二人の対決を見守るしかなかった。



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