第二部 鵺 (十五)
空には満月に近い月が昇り、無数の星がきらめいていた。雲はないようだ。
文九郎はこれなら月明りで二人を探し出せるといくらか安堵し、早足で四之橋へ向かう間に川村に気になっていたことを尋ねた。
「さっきの話だけど、権七があの松平様のお家屋敷に俺を閉じこめたのは、放っておくと俺が林様に会いに行くと思ったからだね?林様を騙して天玄寺の秘仏を盗むのを邪魔されるかもしれないと……」
「それもありますが、何よりも文九郎様が権七を怪しいと睨んでいたからだと思います」
「偶然だったんだけどな……」
「その偶然を見逃さなかった文九郎様を畏れたのですよ」
文九郎は思わず川村の顔を見た。
川村も文九郎に少し顔を向けた。薄く笑みをうかべていた。
その権七は逃げている。どこへ逃げたのか。逃げるとしたら、川沿いか建物の多いところだと文九郎は思った。今、向かっている広尾原ではないだろう。行方が気にはなるが、文九郎にとっては綾音と三之助を見つける方が遥かに重要だ。
「林様の足を斬ったのは盗賊だと思いやすか?」
文九郎は引っ掛かっていたことを思いきって川村に尋ねた。
「文九郎様はどう思われているのです?」
「……酒井さんは三之助様に太ももを浅く広く斬られてやした」
「某も林様の足を斬ったのは三之助様だと思います。後を追わせないためでしょう」
手加減したとはいえ、自分を助けようとした叔父をも斬りつけた三之助の心が文九郎には理解できなかった。ましてや、綾音と死のうとするなんて、理解したくもない。
四之橋を渡り終えた所で川村は提灯を消し、暗さに目がなれた頃合いに広尾原へと足を踏み入れた。気配を窺いながら、足音を忍ばせての行軍だ。
微かに草が擦れ合う音がしている。しかし何の物音かはわからない。
文九郎は五感を働かせて何か手掛かりを掴もうとした。何かがざわついている。
文九郎はざわついているのが自分の気持ちなのか、本当に目の前の野原の何処かがざわついているのかわからなかった。
思わず川村を見た。何か感じてくれていないかと祈る気持ちだった。
そのとき、ぴー……ひょお~……という寂しい笛のような音が聞こえた。どきりとした文九郎に川村が囁いた。
「今の鳴き声が林様のおっしゃっていた鵺です」
「今のが鵺の声?」
いわれてみると、昔聞いたことがある気がした。
「確かに気味悪いな……けど、あの化物の声にしちゃ可愛いや」
「この辺りは鵺が巣をつくるところです。夜中にあのような鳴き声がするので、夜にこの辺りをうろつく人はめったにおりませぬ」
またひょお~……という不気味で物悲しい鳴き声がした。先ほどよりも少し遠くから聞こえた。文九郎にはひとの泣き声に思えた。
文九郎が鵺の声に気を取られている間に川村の視線が一所に向いていた。文九郎はその視線の先を追った。
広尾原は二つの村の入会地で、草むらが広がる中に所々林がある土地だ。そのうちの手前にある林の中へ何かが入ったと見えた。
川村が文九郎を見た。文九郎も川村を見た。二人は黙って頷き、足音を忍ばせて林に近づいていった。
近づくにつれ、林の中で動いているのが二人の人間だとはっきりしてきた。男と女だ。
男はよろよろと歩いている。女はそんな男を支えて歩いていた。その後ろ姿に文九郎は見覚えがあると思った。
文九郎は走り出した。川村の足音がすぐ後ろにある。
林の中の二人が立ち止まり、そこへ腰を下ろした。
女の姿は見えなくなった。
男が何かを握った手を上へあげるのが見えた。
文九郎は思わず叫んでいた。
「やめろ!姉ちゃんを巻き添えにするな!」
男の手が上で止まった。手にしているのは形と長さからして脇差だ。
「文九郎?」
小さく聞こえた女の声は間違いなく綾音の声だった。
三之助と思われる男が脇差を手にしたまま立ち上がり、林の奥へ向かって走り出した。
「あ!逃げるのか!卑怯者!」
文九郎は後を追おうとして、はっと立ち止まった。男の逃げる後ろ姿が前に見た辻斬りの逃げる後ろ姿と違っていたのだ。
川村が男を追いかけていく。
文九郎も走り出そうとしたが、誰かが腕を掴んできた。咄嗟に振りほどこうと反対の手で掴んだその手は柔らかく、甲は傷だらけだった。
――姉ちゃん……
文九郎は手の主を見た。林に差し込んでいる月明かりが見せた綾音の顔は、たった一日の間にひどくやつれて見えた。一段と能面のようだったが、 眼差しは強かった。その強い眼差しで文九郎を見つめている。
「文九郎、三之助殿を見逃してあげて。わたくしのことも、このままここに捨て置いてください」
「何言ってんだ!いくら賊を退治したって、辻斬りを見逃すわけにゃいかねぇ。何人の罪のない人の命が奪われたと思ってるんだよ!姉ちゃんももちろん放っておけるわけねぇ!」
綾音がかぶりを振った。
「そなたは誤解しています。三之助殿は辻斬りではありませぬ」
「何言って……」
言いかけて文九郎はまた逃げていく男の後ろ姿を見た。確かに違う。川村がもう追い付きかけていた。
「それじゃ、誰が辻斬りだって言うんだ……林様でもねぇんだろ?」
文九郎の頭に辻斬りを追いかけた夜が細部にいたるまで甦ってきた。
「あいつは、辻斬りは、左肩を少し下げ気味にして走っていた。刀が重いからかと思ったりもしたんだが……」
文九郎の腕を掴む綾音の手が震えた。
「その癖は……その癖は、圭之助様の癖です」




