第二部 鵺 (十)
木塚は三人を三之助の部屋の前まで案内したところで女中が呼びに来たため、三人を残してあっさりと台所の方へ去ろうとした。
栗本が慌てて背を向けた木塚に質した。
「今日はどなたも御屋敷を訪れていないということでしたが、昨日は林様の他にどなたか、あるいはどなたかのお使いが訪れたということはありませんでしたか?」
木塚は歩きかけた姿勢のまま暫く考えていた。
「いや……某の知る限りではなかったな。大事なことかな?」
「ひょっとしたら、三之助様は昨日お見えになったか、文を出された方のお誘いでその御家に向かわれたかもしれないと思いまして……」
木塚はまた暫く考えていた。
「奉公人どもに確めてみよう」
「よくいえば河内屋は信頼されてるってことだが、なんとも無用心なこった」
そう言いながら、栗本は三之助の部屋の障子を開けた。
六畳の部屋はきれいに片付けられていた。箪笥の中も上から下まできちんと整頓されていて、書物は貸本屋の印のある戯作本が二冊、文机に置かれているだけだった。
文九郎もあちこち調べたが、鵺の声で鳴く化物はもちろん、魑魅魍魎に関わりのある物は何もみつからなかった。
一通り部屋を調べた後、栗本は暫く部屋のまん中に立って考え込んでいた。
文九郎も何とは言えない漠然とした思いをはっきりさせようと栗本と共に暫く佇んだ。
きれいに整頓されているのは、ここを出るつもりだったからかもしれない。魑魅魍魎の絵は始末したのかもしれない。いずれにしても、確かなことは言えない。それ以上のことは浮かばなかった。
「駄目だ。何も浮かばねぇ。俺は身体動かす方が向いてんだよな」
文九郎は考えるのを止め、三之助の部屋を出て濡れ縁から庭へ飛び降りた。
「考えるのは旦那に任せやす。下手人は罪を犯した場所に戻ることが多いって爺ちゃんが言ってたから、一度、圭之助様が殺された浜へ行ってみやす。あの辺には隠れ家になりそうな、漁師が道具をしまってる小屋もありやすしね」
栗本は鋭い目つきのまま、口の端に笑みをみせて言った。
「俺はもう少しこの屋敷について調べる。いくつか気になることがある。おたげぇわかったことは太吉爺さんに知らせることにしようぜ」
文九郎は稲葉屋敷から圭之助の亡骸が見つかった金杉浜町の浜辺へと駆けていった。辿り着いた浜辺に人影はなかった。
ここへ来ようと思ったのは、下手人が罪を犯した場所に戻る、その後の様子を見にくる傾向があると聞いていただけでなく、綾音も圭之助が亡くなった場所を見にくる可能性が高いと思ったからだった。
人影のなさに自分の見込みが違っていたのか、遅かったのかと思いながら、何か手掛かりがないかと、文九郎は浜を見渡した後には納屋をひとつひとつ調べていった。
ひたひたと何かが近寄ってくる気がして、納屋から出る度に辺りを見回した。動くものはない。
納屋を三棟、調べ終えた時だった。砂の上に数滴の血のあとを見つけた。まだ新しい。
文九郎は膨れ上がる不安をなんとか抑えてその周囲を注意深く調べた。何人かの人間が踏み荒らしている。怪我人を運んだと見えた。
文九郎は自身番へ向かった。大抵の場合、自身番へ何らかの知らせが入っているからだ。
自身番に詰めていた町役人は、文九郎の問いかけによく聞いてくれたと言わんばかりの熱心さで二刻ほど前に起こった出来事を語った。
膝隠しの後ろに座って茶を飲んでいると、御高祖頭巾の女が息急ききってやって来て、浜で侍が脚を切られているから、すぐに医者を呼んでほしいと頼んだという。
町役人が例の辻斬りかと尋ねると、女は違うといい、自分は通りかかっただけでこれから大事な急ぎの用があるとだけいって、近づいて来た時同様、小走りで去っていった。
町役人は疑問を感じつつも、確かめないといけないと浜へ向かった。すると、確かにそこに太ももを切られた侍がいた。
町役人はすぐに人を集め、侍を近所に住む金創医のもとへ運んだ。
侍の意識はしっかりしていたので、戸板にのせて運ぶ途中に何があったのか、誰に斬られたのか尋ねたが、侍は何も言わなかった。
心の臓が早鐘を打つように鼓動しているのを感じなから、文九郎が侍の特徴を尋ねると、額の真ん中辺りに黒子があったという。
「酒井さんだ!そのお医者の家を教えてくだせぇ」
斬られた侍が酒井ならば、そのことを知らせた御高祖頭巾の女は間違いなく綾音だと文九郎は思った。侍が御高祖頭巾の女の近くにいたのではないかと町役人に尋ねたが、町役人は御高祖頭巾の女しか覚えていなかった。
文九郎は教えられた金創医の家へ駆け込んだ。
坊主頭をした金創医は文九郎の早口での質しに薬研で何かの薬を作りながら、淡々と答えた。
「傷は縫った。切り口の見た目は大きいが、浅いから後々に響くことはないだろう」
文九郎が今話せるかと尋ねると「気はしっかりしておるよ」と、閉じた障子を指差して居場所も教えた。
文九郎が障子を開けると青白い顔色の酒井が布団に横たわっていた。生気も薄い。酒井はいつも明るく元気溌剌な、よく喋る男だっただけに、文九郎はその姿に動揺せずにいられなかった。
酒井はすぐに目を開けて文九郎を見た。文九郎が声をかける前に口を開いた。
「ぶ、文九郎様……綾音様を、綾音様を探してくだされ……」
文九郎は逸る気持ちを押さえて枕の横に座った。
「姉ちゃ……綾音様はどうしたんだい?あんたは誰にやられたんだ?」
「綾音様は、三之助様と行動を共にしておられるはずです……」
やっぱりと文九郎は思った。
「あんたを斬ったのは三之助様なのか?」
酒井は軽く首肯した。
「一体何がどうなって、こうなったんだ?」
文九郎の問いに酒井がプッと吹き、直後に顔をしかめた。
「わ、笑わせないでくだされ、文九郎様」
「笑わせたつもりはねぇ。三之助様が普通じゃねぇのはお屋敷の庭を見てわかってる。姉ちゃんは朝早くから三之助様に会いに行ったのか?あんただけを供にして。川村さんはどうした?知りたいことがありすぎるんだよ!」
「確かに綾音様の方から三之助様に会いに行かれました。確かめたいことがあると……昨日、某は文を三之助様へ届けました。屋敷内よりも外の方が話しやすいと綾音様はお考えになったようで……」
三之助が辻斬りかどうか確かめるために、わざわざ外で二人だけで会う約束を取り付けたというのか。
「無茶だ!なんて危ないことを……まさか、浜で三之助様と待ち合わせを?」
「某もそう申しあげたところ、綾音様は大丈夫だと仰って……待ち合わせたのは、浜ではなく、赤羽橋の袂です」
赤羽橋の辺りは人目が多い。そこを待ち合わせに選んだということは、ちゃんと用心していたということかもしれないが、そこから結局は、人目の少ない浜へ行き、供をしていた酒井が斬られた。
「やっぱり大丈夫じゃなかったじゃねえか」
文九郎は酒井を睨みつけながら言った。
「確かに某は刃を向けられましたが、それはお二人から離れているようにという綾音様のご指示を破ったからです。綾音様はご無事のはずです。三之助様は綾音様を大切に思っておられますから。ただ、逃げ回るようなことはお止めしないと……」
――逃げるとは、やはり三之助が……
改めて文九郎に沸々と怒りが湧いてきた。
「そうだよ。逃がすものか!……そうだ、林様は?」
「お医者様だという、三之助様の叔父君ですな。某はお会いしておりませぬが……」
「二人はどんなことを話してたんです?離れているように言われていたということは、あまり聞こえちゃいねぇんでしょうけど、何か聞きかじったことはありやせんでしたか?」
酒井はかぶりを振った。唾を飲み込もうとする様子に、文九郎は枕元にあった急須から吸筒に白湯を入れて、恐縮する酒井に飲ませた。
「あ、ありがとうございまする。某は大丈夫ですから、早く綾音様を……」
「わかりやした。どっちへ向かったんです?」
「前々から申し上げているように、某にそんな言葉遣いは無用ですぞ……」
「んな細かいこたぁ、今はどうだっていいだろが。二人はどっちへ向かったんだ?何か見聞きしてねぇか?」
細かいことはいいだろうと言いながら、文九郎は結果的に酒井の言うとおりにしたから、酒井に弱々しくも笑みが浮かんだ。
「南へ向かうようなことを仰っていました。本当にそちらへ向かったかはわかりませぬが……」
「品川の方か。まさか大木戸は出れねぇだろうが……」




