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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第二部 鵺 (九)

 

「文九郎、おめぇの姉君、評判良いぞ」

 下女の姿が見えなくなった途端、栗本が言った。いきなり綾音の話を振られて、文九郎は面食らった。

「旦那、いきなりなんでやすか」

「この河内屋を始め、稲葉家出入りの商人の何人かに話を聞いたんだ。傾きかけたこのお家を立て直したそうだ。姑のいびりにもめげず、己は一切贅沢せず、稲葉家に尽くした五年間だったそうだ。子ができなかったのは、そんな質素で気詰まりな暮らしのせいだったかもしれねぇな。今でも綾音様に戻ってきてほしいと願う稲葉家の奉公人が多いらしい」

「これからお見えになる木塚様もそのお一人でございますよ」

 重蔵が教えた。

「おめぇんとこに大店から姉君を嫁にもらいてぇって話がいくつか入ってるそうだが、そんな評判が広がってのことだ」

 栗本の言葉に重蔵が頷いた。

「うちの旦那様も、無理とわかっていながら、何人か話を持ち込んだという噂にダメ元で、若旦那様の嫁にお迎えできたらと、名主の藤兵衛さんを通じて申し出たのでございますよ」

 文九郎は綾音が淡々と語った「どんな境遇になろうとも、殿様を支えられるように」という言葉の重さを感じた。夫婦仲もよかったのに、そんな綾音を離縁させた稲葉の大奥様に一段と腹が立った。今の話をこの家のあのクソババアに聞かせてやりたいと思った。だが思った直後に無駄だろうと思い直した。そうした綾音の行動も、母親が町人だからと、貶めるネタにするだけだろう。

 まもなく小走りの足音が近づいてきた。


「重蔵、大変なことになりもうした。河内屋の力を借りないといけない」

 稲葉家の用人、木塚五郎兵衛は圭之助の通夜で文九郎が見た覚えのない顔だった。用人というと、新見家の真壁のように、なんとなく年を取っている思い込みが文九郎にあったが、稲葉家の用人は三十前後に見える丸顔の侍だった。番頭は腰低く、木塚に頷いてみせた。

「詳しい話をお聞かせください。力をお貸しするには本当のことを知る必要がございます。こちらにおります手前どもの番頭見習い、金八は、揉め事を片付ける才がございましてね」

 文九郎は番頭の金八の紹介に思わず力が抜けかけたが、なんとかごまかした。

 では話が長くなるからこちらへと、木塚は母屋へ向きを変えた。栗本は文九郎へ振り向いて囁いた。

「急がば回れ、だぜ」


 木塚は母屋の狭い一室で声を落として圭之助の死後の騒動を語った。

 文九郎は濡れ縁からその様子を眺めた。三人の顔が見える絶好の位置だ。

「三之助様は圭之助様が亡くなったと知った直後から、いえ、行方がわからないと知った時から落ち着かなくなっておられたが、あの日以来、食も落ち、夜もあまり眠れないらしく、日に日に衰弱しておられるのだ。大奥様の言うことはお聞きにならず、顔も合わせようとなさらない。跡目相続のためにお城に御目見えに伺わないといけないのに、それも延期し続けており、このままでは御家断絶になりかねない。困ったものだ。大奥様も気に病んで、ここ数日は床におつきになっておられる。お小さい頃から細かなことを気にする御方ではあったが、まさかこのようなことになろうとは……」

 栗本は同情するように頷いてから尋ねた。

「新見様の御息女に正式に婚姻を申し込んだとお聞きしました。圭之助様のかつての奥方様に。大奥様がよくお許しになりましたね」

「大奥様は大反対であったよ。だが三之助様のあまりのご様子に折れざるをえなかったのだ。綾音様でないと駄目だと三之助様が言い張るので、仕方なくだ」

「どうしてそこまでかつての兄嫁に……兄嫁でいらした頃から心を寄せている風はあったのですか?」

「そこがなぁ……それがしの見ていた限りでは、あくまでも姉として慕っているように見えていたのだ。いなくなってみて、己の本当の気持ちがわかったのかもしれないが、通夜の席で綾音様に抱きついて泣いたと聞いたときは信じられなかった」

 栗本はそこで濡れ縁に座る文九郎をちらと見た。文九郎は事実だと示すためにわずかに頷いた。


「夜中に刀を抜いて暴れるようになったのはいつからなのですか?」

 栗本の率直な問いに木塚は苦いものを口にした顔つきになった。

「圭之助様がお亡くなりになって五日ほどたった頃からだ。ちょうど三之助様の憔悴ぶりが我々の目につくようになった頃だった」

 五日といえば、町方が考えていた辻斬りの現れない間隔でもある。文九郎は符号を頭の中で整理した。

「圭之助様がご存命の頃にそのようなことはなかったのですな?」

 木塚が答えるまでに少し間が空いた。

「なかったとも。三之助様は心根のお優しい、悪く言えば気の小さい御方だからな」

 文九郎は木塚が答えるまでに開けた間が気になった。栗本も同じだったらしい。

「ふむ。三之助様はそんなことをなさってはいないだろうということですな。ということは、誰がやったかはともかく、以前にも何かあったということですかな?」

 さすが、町奉行所の敏腕同心である。文九郎は栗本の相手の言った言葉から裏を読み取り追究していくのを目の当たりにし、改めて敬服した。

 木塚はみるみる青ざめた。

「前にあったのは、随分前のことで、確かなことはわからんのだ」

「何があったのです?」

「もう十年以上前になる。猫や犬の死骸が庭に転がっていたことがあるだけだ。数年間にほんの数度だ。頻繁にあったわけではない」

 木塚のことさら事件を軽く印象づけようとしている様子に文九郎は却って疑惑が募った。というのも、たとえ当初は誰の仕業かわからず、忘れかけていたとしても、今の庭の有り様を見たら、翻って三之助の仕業だったのではないかと疑うのが当たり前ではないだろうか。あえて否定する理由、その根拠は何なのか。


「三之助様を御医師に診てもらうことはなさらなかったのですか?」

 文九郎は「医師」という言葉に再び栗本と木塚の会話に耳をすませた。

「しましたとも。三之助様の叔父にあたる御方が御医師ですので、夜中に暴れられた翌日に早速診ていただきました。しかしその時の三之助様はいたって普通のご様子で……お痩せになっているので、高麗人参の入ったお薬をいただき、もう少し様子を見ることで終わりましてな……」

 心の病は厄介だと文九郎は聞いていた。医者を前にすると平常になることが少なくないからだ。

「それっきりでございますか?」

「いや、昨日の夕方にも様子を見に来られた。わしはお会いしていないのだが、女中の話では、四半刻足らずでお帰りになったらしい」

 文九郎は思わず木塚の顔を見た。

「昨日の夕方に、でございますか」

 栗本が確認するように繰り返した。

 ――なら、林様はここを出てどこへ行っちまったんだ?

「三之助様の姿が見えなくなったのは今朝の四つ頃(午前9時頃)とのことでしたな。そのときのことを詳しくお教えください」

「うむ……いつも六つ半(午前7時頃)に朝の膳をお持ちするのだが、最近は声をかけるだけで濡れ縁に置いておくことになっておりましてな。今朝も女中のおたえが膳を置いたときには部屋の中に気配があったのに、片付けに行ったら、膳には全く手がついておらず、部屋の中にも気配がないので、思いきって障子を開けてみたそうだ。すると、障子はすんなりと開いて中には誰もいなかったという……」

「それではいつ部屋から姿を消したか、はっきりしないではありませんか」

 文九郎の言いたかったことを栗本が言った。声の調子に呆れた風が感じられた。

「今朝膳を持っていったときにあった気配とは、なんです?物音がした?」

「おたえの申すには、三之助様が部屋に籠っている時には独特の気配があるというのだ。物音がすることもあるし、物音がしなくても、ピンとくるとな。あれは三之助様が小さい頃から当屋敷に奉公しておるゆえ、間違ってはおらぬと思う」

 栗本の顔に薄い笑みが浮かんでいた。

「お膳は何でしたかな?白飯に味噌汁、漬物でしょうか?煮干はありましたかな?」

 木塚は咳払いをした。

「近頃の三之助様は食が細くなっておられる故、朝の膳は粥でござった」

 栗本が急にしかめ面になった。笑いをこらているのだと、文九郎は思った。

「当お屋敷には猫が何匹かおりますな」

「ん?うむ。二匹おる。大奥様が可愛がっておられる猫だ」

 文九郎もなんとか苦笑いをこらえた。


 見えてきた状況は最悪だ。三之助は昨夜から今朝の間に屋敷を抜け出したのだ。おそらくは夜のうちに、だ。

 昨夜、人殺しがあったとは聞いていない。だが亡骸が見つかっていないだけかもしれないと、文九郎は焦燥感にかられ始めた。

 しかし、それならば、綾音は三之助に会ってはいないということか。

 文九郎の気持ちを汲み取ったかのように、栗本が尋ねた。

「今日、御屋敷を訪ねてこられた御方はございませんでしたか」

「いいや。いつもの振売りだけであった」

 ――じゃあ、姉ちゃんは朝早くから何処へ出掛けたんだ?前日に手紙を届けていたというから、屋敷外で三之助と待ち合わせた?そうだ。手紙のことも確かめなきゃ……

 文九郎は栗本を見た。栗本は用人に向いていて、文九郎を気にしている様子はない。

「三之助様のお部屋を見せていただけますか」

 栗本の求めに木塚は少し躊躇したが、よかろうと立ち上がった。

 文九郎は三之助の部屋へ向かう途中で栗本に後ろから囁きかけた。

「旦那、昨日、新見家からの使いが来なかったか、聞いてくださいやし。綾音様はどこかへ文を出したらしいんでやす。てっきり三之助様宛だと思ってたんでやすが、もしも違ってたら……」

 栗本は承知したというように、微かに頷いた。

 

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