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月夜の鵺  作者: 空木弓
32/43

第二部 鵺 (ハ)

 しかし、文九郎が林英昌の診療所兼住まいの戸で目にしたのは「本日急用により休診」という貼り紙だった。

 ――なんでこんな時にいねぇんだよ!

 文九郎は心の中で毒づきながら、辺りを見回した。誰か行き先を知っていないかと願いながら、何度か路地を行きつ戻りつした。それからやっと思い付いて番屋で尋ねてみた。

「林先生なら、昨日お出掛けになったきりみてぇですよ」

 あの貼り紙は昨日の昼頃から貼ってあるという。

 ――いちかばちか、稲葉屋敷へのりこむしかねぇか……

 文九郎は今走ってきたばかりの道を再び一之橋まで走って戻った。

 一之橋を右目に飯倉新町から稲葉屋敷へ向かおうとして文九郎は立ち止まった。

 ――こんな時、爺ちゃんならどうするんだろ?

 暫く佇んだ後に、文九郎は新町へ入るのを止め、一之橋から新堀川に沿って東へ向かう道を走り始めた。この道と金杉橋で交差する大通りを北へ取れば、道は源助町まで一本道だ。



 庄兵衛長屋に息を切らせて戻ってきた文九郎に太吉爺さんは黙って丼に入れた茶を出してきた。

 文九郎が丼に入った茶を勢いよく飲んでいる間に、ぼそりと言った。

「よくねぇ成り行きらしいな」

 文九郎は茶を飲み干して丼を上がり框に置いた。手が震えていた。文九郎は驚いて自分の震える手を見つめた。

「話してみろ」

 太吉爺さんの声は落ち着いていた。

 文九郎は新見屋敷で聞いた三之助の婚姻申し込みのこと、稲葉屋敷へ入るのに助太刀してもらおうと林英昌の家へ行ったら、昨日から留守だったことを早口で捲し立てた。

「爺ちゃん、俺が稲葉屋敷に入り込む良い手はねぇかな?夜まで待てねぇよ!三之助が辻斬りなんだよ!姉ちゃんがあぶねぇ!」

 太吉爺さんは壁を向いたまま黙って文九郎の話を聞いていた。文九郎が話し終えてからも暫く何も言わなかったが、目がかつての鋭さを見せていた。親分の目だ。その目でふっと文九郎を見返った。文九郎はぴりりと身が引き締まった。

「心当たりの人物が辻斬りかどうか御姫様が確かめようとしてるのも、そんなお姫様の身が危ねぇのも間違いねぇだろうが、三之助とかいう弟君が辻斬りと決まったわけじゃねぇ。早まるんじゃねぇぞ」

「ほかに……」

 他に誰がいるってんだと言いかけ、文九郎は口を閉じた。綾音のあの震えは、予想外の人物が辻斬りではないかと思ったからなのか。

「まずは栗本の旦那に知らせろ。それから河内屋へ行って助太刀を頼むんだ」

「河内屋って、三島町の油屋の?」

「そうだ。詳しいことを言う必要はねぇ。主の長右衛門に俺が助太刀を頼めと言った、姉君のために稲葉様のお屋敷に潜り込む必要があるとだけ言って、稲葉屋敷へ連れて行ってもらえ。河内屋は稲葉家へ油を納めているだけじゃなく、金策もしてる。門前払いはできねえよ。河内屋の手代の振りして潜り込め」

「爺ちゃん、ありがとよ!」

 店を飛び出した文九郎を爺さんの低い怒鳴り声が追いかけてきた。

「早まるんじゃねぇぞ!おめぇはせっかちだからな!いいな!」


 半刻後、河内屋の手代、勘助が引く大八車を同じく手代の正七と並んで後ろから押し、文九郎は稲葉屋敷へ向かう坂道を登っていた。大八車の前には河内屋の番頭と町人の成りをした栗本が歩いている。

 大八車には壺が五つ並んでいたが、油が入っているのはひとつだけで、あとは空だ。あちこちに油を届けるとともに、空になった壺を集めている風を装うためである。

 稲葉屋敷に着いたら、唯一油の入っている壺を文九郎が背負って中へ入ることになっている。勘助と正七は大八車と共に門前に残り、中で何かあった場合には番屋へ走る連絡係を務める。

 この段取りはあっという間に整えられた。

 町を巡回していた栗本とは三島町へ行く道で出会った。文九郎はその幸運に飛び上がりたい気分だった。

 栗本は文九郎から話を聞くとすぐに自分も稲葉屋敷に潜り込むことを決めた。

「例の辻斬りに絡んだ件とあっちゃあ、おめぇだけに任せちゃおけねぇ」

 栗本と共に向かった三島町の大店、河内屋では、太吉爺さんの名前を出すと、主の長右衛門がすぐに出てきて腰低く二人を奥へ誘い、明日納めるつもりの油があるから、それを今から持っていきましょうと提案してきた。何があったかしらないが、太吉爺さんに大きな恩があるらしい。

「油の入った壺を門で受けとることはしません。奥の蔵まで持っていくように言われますから、間違いなく敷地内に入れます」


「御免くださいまし。河内屋でございます。油をお持ちいたしました」

 番頭の重蔵が門番におとないを告げると、門番は番頭の顔を確かめただけで後方は全く確認もせず、潜り戸を開けた。

 打ち合わせどおり、頬被りに笠を被った文九郎が油壺を背負い、重蔵、栗本に続いて潜り戸を抜けた。

 顔を上げて目に飛び込んできた光景に、文九郎はぎょっとした。圭之助の通夜で中へ入ったのは夜だったから、周りがよく見えたわけではない。しかしこんなに荒れていただろうか。

 文九郎は笠の下からこっそり辺りを見回しながら歩いた。

 あちこちに中途半端な空き地がある。

 一角の数本の潅木には幹に大きな切り込みが見え、枝はほとんど切り落とされていた。

「なんだ、このざまは。前に来た時もこうだったのか?」

 栗本が小声で尋ねてきた。

「暗くてよくは見えやせんでしたけど、ここまで荒れてたってことはなかったと……」

 文九郎も小声で答えた。

「ふむ。誰がこんなことをしでかしたか、突き止めねぇといけねぇな」


 勝手口で重蔵が挨拶すると、四十くらいの下女がにこにこと出てきた。重蔵は栗本を番頭見習いの金八だと紹介し、栗本は実に卒の無い挨拶をした。

 下女が先導して一行は蔵へと向かった。文九郎の耳に重蔵と下女の会話が聞こえてきた。

「前に伺った時から、ずいぶんお庭の様子が変わったような……何があったんだね?」

「誰でも気がつきますよねぇ。大きな声じゃ言えないんですけど、ある御方が夜になると度々刀を振り回されて……」

「ある御方って、そんなことをして内密にされるのは……」

 重蔵は続きを下女の耳元に囁いた。

 下女が重蔵に顔を向けて大きく頷いた。

「兄上様がお亡くなりになってから、どんどんおかしくなってるんですよ。あたしたちも怒らせないようにヒヤヒヤ。今のところ人に刃を向けることはなさらないんですけど、夜中に喚きながら、庭の木をめった切りしてるのをこの目で見たんですから、もう……」

 下女は肩を震わせた。

「あ、今日は安心ですよ。いつの間にか屋敷を抜け出ておられるんです」

 文九郎は思わず立ち止まった。

 栗本が卒なく下女に文九郎が知りたいことを尋ねてくれた。

「そんな状態でお屋敷を抜け出ているのは、余計に厄介なことになりはしませんか?もしも町中で刀を振り回したら、大変なことになりますよ。いつ御屋敷を抜け出られたのです?誰かが尋ねてきたとか?」

「今日はいつもの振売りしか来てませんし、気がついたのは今朝の四つ頃(午前九時頃)ですけど……でも暴れるのはいつも夜中ですし、元来気の小さい御方なんですから、明るいうちに町中で刀を振るうなんてことは……」

 そう言いながら、下女も心配な顔つきに変わっていった。

「夜までに戻ってらっしゃらないと、大変なことになりますぞ。このこと、町方に知らせないわけにはいきません」

「そんな!あたしが喋ったことは内緒にしてくださいよ!」

「御用人の木塚様とお話する必要がありますな。蔵前におりますから、急いで呼んできてもらえますか」

 すっかり栗本が仕切っている。しかも、最後の方は下女の目を射貫くように見つめていた。

 その様子に、文九郎はただの番頭見習いでないのがバレバレだとハラハラしたが、下女は何も言わず大きく頷き、小走りで母屋へと戻っていった。

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