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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第二部 鵺 (七)

「おまささん、昨日綾音様が俺に相談しようとしてたことの見当はつかねぇかい?」

「はっきりとは仰いませんでしたけども、おそらく稲葉三之助様のことと……ではないかと……」

「なんだって?あいつ、姉ちゃんにしつこくつきまとってやがるのか?」

 文九郎の声は大きく、言葉遣いは粗くなった。

「い、いえ、しつこくつきまとっているわけではございません。実は綾音様を奥方に迎えたいと、一昨日、正式に申し込んでこられまして……」

 文九郎は呆れと怒りが混ざりあって、拳を強く握りしめた。

「……てこたぁ、今日の行き先はきっと稲葉様のお屋敷だ」

 おまさは首を横に振った。

「わかりません。そうは仰いませんでした。昨日、酒井様を使いにして文を何処かへ出されたようでございますが、酒井様も口が固くて届け先は教えてくださらず……」

 文九郎は腕組みして考えた。とにかくもう一度稲葉屋敷へ行く必要がある。だがいきなり文九郎がひとりで行って姉が来ているかと尋ねても、本当のことを教えてもらえない可能性がある。中へ入れてくれと言っても門前払いを食らう可能性が高い。確実に屋敷に入り込むためにはどうすれば良いのか。

 文九郎の頭に林英昌が浮かんだ。三之助が辻斬りかもしれないとはさすがに言えないが、三之助の申し出に絡んで稲葉屋敷の様子を知りたいといえば、手を貸してくれるのではないか。迷っている暇はない。文九郎は心を決めた。

 だがそこで、おまさが「ことと……」と、言い淀んだことを思い出した。


「さっき言いかけた、綾音様が長屋を訪ねてきたもう一つの理由って、なんでやすか?」

「ええ、その……」

「なんでぇ、綾音様の行き先を見つけなくちゃならねぇってのに、煮えきらねぇ!おまささん、この期に及んで隠し事は無しにしてくだせぇ」

 おまさはじっと文九郎の目を見つめてきた。その視線の強さに文九郎はたじろいだ。

「跡目を継いでくださるお方が決まりそうなのですが、入れ替わるように、綾音様はさる御大名様の奥向きに御奉公にあがると仰っているのです」

 新見家の跡取りが決まりそうだという言葉に喜びかけた文九郎だったが、続いた話に喜びきれなかった。

「御大名様の奥向きに御奉公にあがるって……奥女中ってことかい?」

「はい」

「なんで、今さら……」

 噂でしか知らないが、文九郎の奥女中の印象は良くない。尾ひれがついているのだろうが、良い話を聞かないのだ。

 正妻や子女の世話役で入ったとしても、若くて美貌の娘は早い話が当主の妾予備軍である。妾にならずとも、後から入って正妻や当主に気に入られた場合にも、周囲の妬みや嫉みがきついという。通常は十五歳くらいから奉公にあがるらしいから、綾音のように二十代半ばで初めて奥向きの奉公を始めるのは、立場が複雑かつ微妙になるのではないか。綾音のことだから、きっと仕事は難なくこなし、当主や奥方に気に入られるに違いない。そうすると先輩格の女中達が妬んで色々嫌がらせを……

 文九郎の頭で嫌な想像が膨らんでいった。奥女中よりは裕福な商家に嫁入る方が遥かにマシに思える。

 ――持ちこまれている話のどれかを進めてみるか?

 どれくらい文九郎は黙っていたのか。おまさが文九郎の顔を見つめて「大丈夫でございますか?」と尋ねてきた。

「なんで、跡目を継ぐ人と入れ替わるように綾音様がこの御屋敷を出なきゃならねぇんだ?」

 文九郎は一番の疑問を口にした。

「おそらく跡目を継ぐ御方のことをお考えになって、だと……。奥向きの御奉公のお話は前々からあったのでございます。ただ主馬様のご病気と、文九郎様が跡を継いでくださるなら、文九郎様が武家の仕来りに慣れるまでこの御屋敷にいる必要があると仰ってお断りされていたのです」

「お、俺のせいだってのかよ!」

「いえ、そうは申しませんが……」

 言葉とは裏腹に、おまさの顔つきはそうだ、お前のせいだと言っていた。

 文九郎は考えることが多すぎて混乱しかけた。軽く頭を横に振った。今、しなければいけないことは、綾音を見つけることだ。

「その御奉公にあがるっていうのはどこの御屋敷だい?話を仲立ちしてるのはどなたでやす?」

「ご奉公先は三組の大番頭、森川紀伊守様の上屋敷でございます。仲立ちは先代と懇意でいらした、三組の組頭を長くお勤めの宮重様でございます」

 森川紀伊守俊孝は、一万石の下総生実(おゆみ)藩の藩主で、上屋敷は神田の方にある。

 そっちへ行ったならば、少なくとも命の危険はない。しかし……

「そこへ黙って酒井さん一人連れて行くってのは、ねぇか……」

「はい……昨日、お手紙を出された先はそうだったかもしれませんが、今朝早くお出掛けになるとは……」

「ともかくも稲葉様のお屋敷に行ってみやす。もしも綾音様がお戻りになったら、俺が戻るまで決してこのお屋敷を出ないよう強く言い聞かせてくだせぇ」


 文九郎が門へ引き返していると、居間の障子が開いた。

 文九郎は大奥様が出てくるんだろうと、全速力でその前を駆け抜けた。捕まって婆さんの思い出話に付き合う暇はない。

 文九郎は甚兵衛が動く前に自分で潜り戸を引いて開けていた。



 文九郎は新見屋敷から田島町の林英昌の家へと向かった。坂の多い道を宮下町まで南下し、そこから一之橋へ向かう道に入って新堀川沿いに道をさらに南下した。下り坂が多かったこともあり、道中の半分以上を走った。不安が胸に広がる。

 ――姉ちゃん、頼むから、早まったことはしねぇでくれ。無茶しねぇでくれ!

 夢で何度も見てきた泣いている女の後ろ姿が頭に甦っていた。

 母も妹も幼い頃に失った文九郎にとって、綾音は唯一会って話のできた女の身内だ。ついこの前初めて会ったのに、会うたびに絆が強まるの感じている。綾音を失うなど、考えただけで恐ろしかった。

 綾音には母と妹の分まで幸せになってもらいたい。心から思う存分笑ってもらいたい。そんな笑顔を見たいのだ。

 奥女中としての暮らしが果たして綾音にそんな笑顔を、幸せをもたらすのだろうか。文九郎にはわからない。綾音に直に聞くしかない。



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