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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第二部 鵺 (六)

 夕方には佐吉が丸一日かけて聞き込んだ林英昌の話を知らせにやってきた。医者としても、隣人としても評判は頗る良く、こっそり賭場に出入りしているとか、金貸しをしているとか、逆に借金を重ねているといった悪い噂は何一つ出てこなかった。交流も町人から武士まで幅広く、あの住まい兼診療所には大抵誰かが訪れているという。

 綾音の言ったことは正しかったようである。

 文九郎自身は、圭之助が通った塾のことを調べ、猿の面を作る職人に話を聞きに行き、どうにもきな臭い権七のことを甲州屋に尋ねてみた。

 塾は林英昌が言ったとおり、何年も前に閉鎖し、その御家は屋敷替えもしていたため、稲葉兄弟に関わることは何も確かめられなかった。

 猿の口面については、辻斬りがつけていたと気づいて以降、こっそりと少しずつ調べているのだが、これまでのところ埒があきそうにない。口面はあまり見ないが猿の面自体はかなり売られており、その気になれば、それから口面を作れるからだ。

 まさか堂々と特別に作らせた口面を辻斬りをやらかす時につけるとは思えなかったが、この日は念のため、猿の面を作っている職人三人に特注で作ったことはないか尋ねてみた。答えは揃ってそんな注文を受けたことはない、だった。

 広い府内にいる面職人を片っ端から質すのは文九郎一人だとどれだけ時がかかるかわからない。しかし栗本に話して人手を割いてもらうにはもう少し確証がいる。その確証を得るためにどうしたら良いのか、文九郎にはわからない。面から見当をつけるのはやはり無理だなと思いながら、文九郎は三人目の職人の家を出た。

 権七の方は、甲州屋には武州平沼村の百姓、善七の息子と申告していて、疑わしい点はなかったというのだが、甲州屋は平沼村に確認してはおらず、文九郎はまず偽の人別帳に違いないと思った。

 寅吉からは音沙汰なしだ。



 翌朝、綾音の「急用」が何だったのか知りたくて、文九郎は新見の屋敷を訪ねた。

 昨夜は夜回りが非番だったので、本当は佐吉の報告を聞いた直後に様子を見に行きたかったのだが、近くで起こったボヤ騒ぎで朝まで待つことになったのだ。

 文九郎が新見屋敷に着いたのは、五つ半になるかどうかという刻限(午前8時頃)だったにもかかわらず、綾音は酒井を供にしてとうに出掛けたと、門番をしていた甚兵衛に告げられた。川村もまた綾音にあることを頼まれたと言って、綾音と酒井が出掛けて四半刻ほど後に一人で出掛けたという。

 辻斬りが鵺の声で鳴く化物の扮装をしていたと聞いて、綾音は圭之助を惨殺した下手人の見当がついたのではないかと文九郎には思えて仕方がない。そうして、もしも綾音が下手人に気がついて確かめようとしているのなら……

 ――姉ちゃんがあぶねぇ。なんとかしなきゃ。

 酒井がついているとはいえ、相手によっては供が屋敷の奥に入り込むことができない。綾音がどこかで一人きりになる可能性が高い。

 そうして、綾音はなぜ酒井だけを連れて出掛けたのか。剣術が頼りになるのは酒井よりも川村の方である。その川村には一体何を頼んだのか。

 文九郎の頭は疑問だらけになった。甚兵衛におまさと話がしたいと告げ、屋敷の奥へと向かった。


「これは文九郎様、よくお越しくださいました」

 そう言ったおまさの顔つきは暗かった。

 文九郎が昨日の綾音の様子を尋ねると、

「実は昨日、綾音様は文九郎様に相談したいことがあると仰って日の出間も無くお出かけになったのです。午の刻(午後12時頃)過ぎに迎えの供を寄越すようにと仰って……ところが二刻足らずで青ざめたお顔でお帰りになり、お部屋に籠られ……そうして今朝もまた早くからおでかけになりましたから、もう何がどうなっているのやらと気を揉んでいたのです。何が起こっているのでしょう?」

 自分に相談事ごとがあったとは、全く文九郎の予想外だった。

「俺に相談って……綾音様は何も仰らなかったよ。いや、その前に俺が余計なこと言っちまったからだな……」

 文九郎は後悔の波に襲われていた。

「俺も驚いたんだけど、爺ちゃんとのやり取りで魑魅魍魎だの、鵺の声で鳴く化物だのが出た途端に綾音様の顔色が変わっちまった。ことに例の辻斬りに鵺の声で鳴く化物が関わりあるかもしれないと言ったら、真っ青な顔色になって、すぐに長屋から出ていっちまったんだ」

 文九郎が経緯を話している間におまさの顔色も変わっていた。

「まあ、辻斬りに鵺との関わりが?どのような関わりでございますか?」

「いや、アレは鵺じゃなくて、鵺の声で鳴く化物……」

 林英昌の受け売りを言いかけ、文九郎はそんなことにこだわるより、さっさとおまさにはすべて話した方が良いだろうと思った。辻斬りを追いかけた時に目にしたことをおまさに打ち明けた。

 おまさは両手を胸の前で組み、一言も口を挟まず文九郎の話を聞いた。文九郎が口を閉じた後に漸く「なんということでしょう……」と、呟くように言い、一旦そこで下を向いた。顔を上げて再び文九郎の目を見つめながら、継いだ言葉はこうだった。

「綾音様はお小さい頃から化物の出てくる草双紙や絵を集めておられたのです。殊に鵺がお好きだったようで、酒井に頼んで色々な鵺の絵を集めておられました」

 文九郎は意外な話におまさの顔を見つめた。

「そうした草双紙や絵が大奥様に見つかり、すべて処分されたこともございましたが、またこっそり集めてお部屋に籠っている時によく眺めておられたようです。稲葉家へもお持ちになったと思います」


 化物の絵が広まったのは、この頃よりちょうど十年前の安永五年(西暦1776年)に刊行された鳥山石燕の『画図百鬼夜行』がきっかけだが、それ以前にももちろん絵巻や草双紙などに化物は描かれていた。綾音はそうした本も集めていたということだ。

 画図百鬼夜行が思いの外売れたため、この頃には二番煎じを狙ったものや紛い物も売られていた。幽霊や化物の見世物もあるくらいだ。

 文九郎も幼い頃には怖い話を隣に住んでいたさわ婆さんにせがんだ覚えがある。要望に応えてさわ婆さんは故郷に伝わる川や湖に棲む化物の話をしてくれた。聞いた後は怖くて眠れなかったものだ。江戸は川や水路だらけだから、いつどこからその化物が出てきても不思議がない気がしたのだ。

 だがそのうち番屋で耳にしたり、太吉爺さんがたまに打ち明けた現実に起こった事件に興味を引かれ、怖くもなり、悪態をつく悪党を目の当たりにして震え上がったりしたために、十になる頃にはわざわざ化物の話を聞こうとも不気味な見世物を見に行こうとも思わなくなっていた。

 そんな文九郎だから、まさか綾音が、少なくとも嫁に行く頃まで、化物に惹かれていたと聞いて驚いたのだが、すぐに鵺の声で鳴く化物を好むのは、不満を抱えている者かもしれないという、林英昌の言葉が甦った。単なる怖いもの見たさではないという……。

 自室でこっそり鵺の声で鳴く化物の絵に見入る綾音を思い浮かべた。毎日何かと叱られ、小言を言われて反論の許されない、肩身の狭い暮らしの中に見つけた、綾音の鬱憤を晴らす密かな営みだったのだろうか。

 怒りや悲しみをずっと押さえ込んでいられるものではない。正しいやり方かはともかく、綾音は化物の話を読み、絵を眺め、おそらくは自分を叱ったり貶める人々が化物に怯える姿を思い浮かべることで怒りや不満を少しずつ吐き出していたのだろう。ひょっとしたら、自身がそうした化物になって周囲が怯える様子を想像したこともあったかもしれない。

綾音はこの屋敷から出ることがほとんどなかったらしいから、それも化物に惹かれ続けた理由ではないだろうかと文九郎は思った。

 ――今も惹かれているんだろうか?


「化物の絵を集めてらっしゃったと申しましても、綾音様がおかしなことを仰ったり、なさったことはございません。庭に迷い込んだ猫を可愛がったり、傷ついた雀を介抱して世話したり、わたくしども奉公人へも気を配ってくださり、それはお優しい御方です」

 綾音を庇うおまさの言葉を文九郎は半分しか聞いていなかった。

「今も眺めてらっしゃるんですか?」

「化物の絵を、でございますか?稲葉家から戻られて以降にわたくしが見かけたことはございませんが……」

「ございませんが?」

 文九郎は先を促すつもりでおまさの言葉を繰り返した。

「お一人でお部屋に籠ってらっしゃる時にどのようにお過ごしになっているかは存じませんから……」

 おまさの表情は戸惑っていた。

「ですが、文九郎様と芝の神明様へお出掛けになられてからは、そのようなことはなさっていないのではないかと……。あの日を境に綾音様はお変わりになりました。本当に。憑き物が取れたように……あ、そういえば、お礼を申し上げておりませんでした!文九郎様、綾音様のお心を開いてくださり、本当にありがとう存じます」

 おまさは深々と頭を下げてきた。

「よしてくだせぇ。あっしは大したことしちゃいねぇ。あの日はただ綾音様の傍にいただけなんですよ」

 おまさはかぶりを振った。

「いえいえ、ただ傍にいただけではなく、文九郎様は綾音様の心に寄り添ってくださったのですよ。でないと、あのようにお変わりになりません」

「『寄り添った』かなあ……ホントに適当に相づち打ってただけなんで……」

 文九郎にすれば、綾音は大泣きすることで、自身でなんらかの決着をつけたのだ。文九郎はその邪魔をしなかった。それだけだ。だが、傍にいて邪魔をしないことは案外難しいのかもしれない。

 酒井から聞いて知っているかもしれないが、綾音が大泣きしたことは伏せておくことにした文九郎である。


 昨日の綾音の様子を振り返るに、太吉爺さんの魑魅魍魎という言葉に、まずは化物の絵や本を見て楽しんでいた昔を思い出し、嫌な気分になったのだろう。

 だが話はそれで終わらなかった。文九郎が辻斬りが鵺の声で鳴く化物の格好をしていたかもしれないと教えてしまった。

 その瞬間、綾音は自身の過去の心持ちを思いだし、似たような心を抱える人物の見当がついたのだ。あの瞬く間に見せた動揺から無表情への変わり様はそうとしか考えられない。

 文九郎に何も言わずに去ったということは、やはり下手人は稲葉家所縁の者ではないか。では、誰なのか。人に言えない気持ちを鬱積させそうな人物といえば……

 ――林様ではないと姉ちゃんが言いきるんだ。では、三之助様?

 おどおどした態度と文九郎に見せた感情の起伏の激しさは、ぷっつりと切れた時には何をやらかすかわからない不安定さを感じさせる。体格も辻斬りに近い。綾音への思慕は、化物を好んでいたという仲間意識からかもしれない。

 しかしそうだとすると、三之助は実の兄を手にかけたことになる。

 ――辻斬りをしていることが兄君にバレたから?

 文九郎にしたら、自身の悪事がバレたとて、一緒に育った兄を手にかけるなど考えられないが、世の中には血の繋がりがある故に憎しみや恨みが倍増し、殺しが起こることが少なくない。太吉爺さんがとらえた下手人にも親殺しや兄弟殺しが何人かいた。

 自分の秘密をばらされるかもしれないとなれば、血の繋がりや一緒に育った思い出などふっ飛んでしまうのかもしれない。

 すぐにも稲葉家へ向かおうとして文九郎はもうひとつの謎を解いておくことにした。

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