第二部 鵺 (五)
眠気と戦いつつ、文九郎がいつものように稲荷の裏手から庄兵衛長屋に入ると、いつものようにアカが眠っていた。
いつものようにちらりと文九郎を見遣るだけだと思っていたのに、アカはのそりと立ち上がり、文九郎の後についてきた。
「今ごろどうしたい?あげられる飯は持ってねぇよ。他をあたってくれ」
文九郎は足元まで来たアカの頭を撫でながら言った。
まだアカが仔犬だった頃に文九郎が悪ガキから助けてやったことを今でも恩に感じているのか、今ではめったに餌もやらず、遊んでやることもしないのに、町中で文九郎を見かければ、必ず尻尾を振って挨拶にくるアカである。だが夜中にわざわざ立ち上がってきたことはなかった。明け方が近いからだろうかと文九郎は思った。
アカの信頼しきったような目を見返しているうちに、文九郎はそんな目をどこかで見た気がした。何か大事なことの気がした。だが、思い出せない。
文九郎は眠気に襲われている今考えても無駄だと頭を横に振った。とにかく一寝入りしなければと、また店へ向かって歩き始めた。
しかし店に戻り、布団に身体を横たえて間もなく、文九郎は爺さんに叩き起こされた。
「御姫様が御見えだ。起きろ!」
爺さんの言葉に文九郎は半分寝ぼけたまま上体を起こし、周りを見回した。
土間に襷をかけた武家女の後ろ姿があった。飯を炊いている。見覚えのある後ろ姿にはっきりと目が醒めた。
「なんで姉ちゃんがここに?いてっ」
拳骨が文九郎の頭に落ちてきた。
「ここに来られちゃ困るんじゃなかったのかい」
太吉爺さんの言う通りである。つい昨日、綾音にもそう言ったばかりだ。
文九郎は寝間着にしている継ぎ接ぎだらけの帷子のまま、上がり框へ這っていった。
「ここへは暫く来ねぇでくれと昨日言ったばかりじゃねぇですか!なんだって昨日の今日で……」
くるりと振り向いた綾音の顔は曇っていた。
「昨日あれから英昌様の所へ行ったのでしょう?何かわかりましたか?」
その顔つきに、やはり綾音は辻斬りを、圭之助の下手人が捕まることを心から願っているのだと、文九郎は思った。
「まだわかったといえるようなことは何も……」
一寝入りしたら、佐吉が田島町近辺での聞き込みをやってくれることになっている。
「林様にご兄弟が通っていた剣術の道場と塾を教えてもらいやしたが、道場に聞き込みしただけで、塾の方はまだ手つかずで……」
「文九郎は英昌様を疑っているのですね」
文九郎は心の臓が踊った。
――どうしてこうも鋭いんだろう?
「いや、疑ってはおりやせんよ」
平然と返そうとした文九郎だったが、出てきた声は上ずりぎみだった。慌てて付け足す。
「林様は、あっしには稲葉の御家にいらした方で一番真っ当だと思えたお人だ。だからこそ、色々教えていただこうと思ったわけで……」
文九郎が口を開いている間、綾音はじっと文九郎を見つめていた。固い表情ではあったが、死んだ魚の目ではなかった。
「あのお通夜にいらしたお方では、剣術に関しては英昌様が一番お強いのは確かです。刀を振るうところを拝見したことはありませんけれど、立ち居振舞いで明らか。文九郎もそう感じたので確かめずにいられなかったのでしょうね。ですが、あのお方であるはずがないと、わたくしは断言できます。あのお方を詮索して無駄な時を過ごすよりも他を当たった方が良いと思います。他に探索の糸口はないのですか」
思わぬ綾音の強い言葉だった。文九郎には「身贔屓」という言葉が浮かび、ムッとする気持ちも湧いたが、反論はできなかった。嘘もつけない。
「真っ当なのは叔父の儒医一人たぁ、稲葉様ってのはいってえどんな魑魅魍魎の御家なんでい」
後ろから太吉爺さんの声が聞こえた。
「魑魅魍魎は言い過ぎだ、爺ちゃん」
文九郎はくるりと後ろを向いたが、振り向く直前に目にした綾音の表情が気になり、すぐにまた前を向いた。
綾音の顔が強張っていた。
「姉ちゃん、爺ちゃんの口の悪さ、許してやってくだせぇ。何を言い出すかと思ったら、魑魅魍魎だなんて、漢字で書かれてたら、読めもしねぇことを……」
そこまで言って、再び文九郎は爺さんの方に顔を向けた。
「辻斬りには魑魅魍魎も合うけどよ、稲葉の御家にゃ、そんな妖しい風はなかったよ」
綾音が息を飲んだ風があった。
「辻斬りには魑魅魍魎が合うというのは、どういうことです?」
文九郎はまた綾音に顔を向けた。
綾音は無表情になっていたが、その目には微かに怯えが見えた。
文九郎はしまったと思ったが、すぐにひょっとして、何か魑魅魍魎に絡む稲葉家のことを知っているのかもしれないと、例の口面のことを話す気になった。
「実は俺、一度辻斬りを追いかけたことがあるんだ。ちらと見えた横顔からすると、あいつ、頭巾を被ってただけでなく、口面もつけてやがった。なんか模様の入った頭巾に羽織袴姿でね。足の早い野郎で、必死に追いかけたけど、逃げられちまった……あの口面が猿だって気づいた時に、ふっと鵺のつもりだったんじゃねぇかと思ったんだ」
綾音が再度息を飲んだ。
「鵺を思い付いたのは、姉ちゃんが楊弓屋で貰ったあの土人形だよ。そう思って思い返してみると、頭巾は虎のような縞模様だったなと思いだし、羽織の模様がなんだったかははっきりしねぇけど、蛇のように見えなくもないような……もっとも、林様によると、鵺はあの化物の鳴き声が似てた鳥のことで、化け物の名前じゃないらしいんだけど……姉ちゃん?」
綾音が突然しゃがみこんだ。身体が小刻みに震えている。
文九郎は慌てて土間へ降りて綾音の背に腕を回した。
「大丈夫かい?辻斬りを追いかけたことがあるのを黙ってて御免よ。余計なこと言いふらすなって栗本の旦那に言われてたもんで……」
「辻斬りは鵺の声で鳴く化物の扮装をしていた……」
綾音の震える声が聞こえた。
「いや、はっきりとはわからねぇけど、猿ってよりは鵺の鳴き声をした化物の方が辻斬り野郎っぽいなと……じつは申年の生まれだから、かもしれねぇけどさ」
少し間を置いて、綾音が文九郎の手を掴んだ。
「大丈夫です。急用を思い出しました」
顔を上げた綾音の顔は真っ青といっていいくらいだった。
「大丈夫には見えねぇ。お屋敷まで送ってくよ」
綾音はかぶりを振った。
「駕籠を拾います。文九郎は夜回りで疲れているでしょう。もうすぐお米も炊けます。しっかり食べてゆっくり休んでください。わたくしのことは心配無用です」
綾音はすっくと立ち上がった。青白い顔色にきっと口を結んだその姿は強い決意を文九郎に感じさせた。
太吉爺さんに一礼して綾音は店を出ていった。足取りはしっかりしていた。
文九郎は綾音を見送った後も暫く土間に立ち竦んでいた。
聞きなれているはずの釜が立てるグツグツという音が文九郎には不気味に響いて聞こえた。
この後、なぜこのときに綾音を追いかけなかったのかと、文九郎は悔やむことになる。




