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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第二部 鵺 (四)

 権七が脛に傷持つ一人なのはわかっていた。過去になにをやらかしたとて、今は博打を打っているくらいなら、文九郎は見逃すつもりでいた。しかし二人の慣れた動きは博打程度では必要のない慎重さだ。

 文九郎は慌てて握り飯を茶とともに胃の腑へ押しやり、白菊の主にはツケにしてくれと早口で頼んで店を出た。すぐに南を向いて権七に何かを手渡した男の姿を探した。男が何者か知りたかった。

 権七に素早く何かを手渡した男は足取り軽く歩いていた。気楽な博徒風である。しかし文九郎はその背中に油断のなさを感じた。

 ――こいつも只者じゃなさそうだ。

 一瞬だが、見えた顔は文九郎に覚えがなかった。この辺りを縄張りにしている博徒や破落戸ならば、大抵顔くらいは知っている。

 ――新参者か。

 文九郎はますます膨れ上がる嫌な予感に気持ちを引き締め、五間近く間をあけて男を追い続けた。

 男は飄々と歩いていく。途中では前から歩いてきた若女房の尻をすれ違い様に触った。若女房が怒るのを薄ら笑いでいなす。

 更に男は歩き続けた。芝神明の門前町へ来たとき、ふっと右へ折れた。

 ここで右へ曲がるとは、行き先は岡場所だろうと文九郎は思った。茶屋へ入ってしまうと、どこの茶屋に入ったのか見つけるのに手間がかかる。急いで後を追った。


 文九郎が角を曲がった時、通りに男の影はなく、ちょうど引戸が閉まった茶屋があった。

 文九郎は入ったことのない間口の狭い茶屋だ。流行っているようには見えない。胡散臭いと思ってはいたが、これまでのところ踏み込むに足る話は聞こえていない店だった。

 文九郎はその前を通り過ぎ、二つ店向こうにある路地に身を隠した。暫く様子を見るためだ。どんな奴が出入りしているのか知りたいと思った。

 と、後ろから近づく嫌な気配があった。素早く振り向いた文九郎の目に入ったのは、やはり会いたくないと思っていた寅吉だった。

 寅吉は二間ほど先に驚いた顔をして突っ立っていた。

「すげーな……こっそり近づいて驚かそうと思ったのによ……」

「こっそり近づくなんざ、おめぇにゃ無理だよ」

 相変わらず岡場所に入り浸ってるのかと文九郎は呆れたが、しょっちゅうこの辺りへ来ているのなら、例の男が入った茶屋のことも何か知っているに違いないと考えた。

 文九郎は人差し指を口にあて、それからその指で寅吉にこっちへ来いと合図した。

 寅吉は好奇心に輝く目になり、尾があったら振ってそうな雰囲気で文九郎の傍へ来た。

「なんでい?捕り物かい?」

「まだわからねぇよ。おめぇ、ここから二件南の、間口二間しかねぇ茶屋に入ったことはあるか?見た目はあんまり流行ってなさそうな茶屋だ」

 寅吉はしたり顔になった。

「あそこはよした方がいいぜ。婆さんが二人いるだけだ」

 言葉遣いだけなら文九郎もかなり荒いが、そもそも性質に問題のある寅吉である。昔から自分のことは棚に上げて他をこき下ろしている。おそらく三十前後の表向きは女中、交渉次第で女郎になるような女が二人いるのだ。

「そんな茶屋についさっき男が入ってったぜ。賭場でもあるのか?」

 途端に寅吉の目が泳いだ。

「知らねぇな……」

「おめぇ、へぇったことがあるらしいな」

「い、いや、俺は……」

 明らかにうろたえている。

「知ってることを全部聞かせてくれたら、博打くれぇでしょっぴかねぇよ。主はどんな奴だ?出入りしてるのはどんな連中だ?」

 寅吉は真意を測るように暫く文九郎の顔を見つめた。

「今の主は玄三郎って奴だよ。賭場も開いてるけど、そっちもそれほど流行ってる訳じゃねぇ。岡場所なんざ、町方に目ぇつけられたら、真っ先に踏み込まれて捕まっちまうからな」

 そうだ。だから、岡場所で賭場を開く輩はめったにいない。

「入り浸ってる連中はいるのか?」

「俺、一回しかへえったことねぇからわかんねぇよ」

「嘘つけ。一回で婆さんが二人に、流行ってねぇ賭場のことまでわかるのかよ」

「わ、わかるさ。半分は噂で知ったことだしよ」

 どうもこいつの言うことは胡散臭い。こいつに頼ろうと思ったのが間違いだったと、文九郎は一言「ありがとよ」と寅吉に告げ、通りに顔を戻した。

 すると表通りから浪人風の男が二人歩いてくるのが見えた。辺りを気にすることなく例の茶屋の引戸を開けた。

 これから賭場が開かれるのだろうか。

 そろそろ夜回りのために杢二郎親分の家へ行かなければいけない。

 ――仕方がない。ここはこいつを使うしかないか。

 文九郎は寅吉に向き直った。

「おい、寅吉。おめぇ、俺の子分になりてぇって言ってたよな」

 寅吉がまた目を輝かせた。

「子分にしてくれるのか」

 人間変われば変わるものだと、内心では文九郎は妙に感心していた。あれほど文九郎を侮っていたのに、路上強盗から助けて以来、手の平を返したこの調子だ。

「あの茶屋で起きてることを探りだしたらな」

「なんか悪さしてるのか?」

「だから、それをおめぇが探りだすのさ。玄人が一人、あそこへへぇったのは間違いねぇんだ」

「玄人って、博打のか?」

「博打も玄人かもしれねぇが、たぶんもっと違うことの玄人だ。怖くなったかい?」

 文九郎の話を聞いているうちに寅吉の顔色が悪くなっていたのだ。

「この程度で怖じ気づくようじゃ、下っ引きは無理だぜ」

「お、怖じ気づいてなんかいねぇよ。あそこの常連にどんな奴がいるか探りだしゃいいんだろ。どうってことないさ」

 明らかに強がっている。しかし寅吉に破落戸連中の知り合いが多いのは確かだ。

「じゃ、任せたぜ」



 その夜の見回りは酔っ払いの喧嘩と浮浪者の取り締まりで終わった。辻斬りも強盗も現れなかった。

 犠牲者が出なかった安堵といまだに下手人を絞り込めていない状態への焦りに、夜回りの面々の疲労は一段と濃かった。

「もう出てこないんじゃ……」

 佐吉が言いかけて慌てて口を噤んだ。

 誰もがそう思いかけていた。だが、そう思って油断した後に再び凶刃が振るわれたら大問題だ。

 栗本も坂本も無言だった。

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