第二部 鵺 (三)
「鵺が好きな人物?鵺というのは鳥だが、お尋ねの向きは、猿の顔、狸の体に虎の四肢、蛇の尾をした化物のことかな?」
「ええ、そうです。……鵺って、鳥なんでやすか?」
「そう、本来は化物ではなく鳥のことだ。夜中にひーひょーという怪しげな声で鳴くから、気味悪がられているが、頭から尾の先まで一尺ほどの地味な色味の鳥だ。例の源頼政公の退治話でも鵺のような鳴き声が聞こえたとあって、化物を鵺とは全く書いていない。それがいつの間にか化物のことになってしまった」
「そ、そうだったんでやすか。あっしも鵺というのは、化物のことだと思ってやした……」
「今ではほとんどの人がそう思っているのだろうな。化物を描いた絵に『鵺』と題をつけているのが売られているしな。その化物が好きな人物とはどんな人物か知りたいと?」
「はい……」
「まぁ、見て気持ちのよい姿ではないな。複数の生き物が合わさっているが、その組み合わせが支離滅裂だ。そんな怪物が好きな御仁となると、何かに恨みを抱えていそうだ。或いは不満……例の辻斬りに関わりがあるのか?」
さすがに察しが良い。あるいは承知のことだからか。
「いえ、あっしの勝手な興味で……」
「そうしたことはわしよりも医者仲間の滋英の方が見識がある。詳しいことを知りたいなら、滋英に会わせよう」
文九郎にしたら、英昌は十分に詳しい気がした。念のため滋英という医者の住居を聞き、ひょっとしたら会いに行くかもしれない、機会があったら伝えてほしいと頼んで林英昌の家をあとにした。
三田道場に十年以上通いで勤めている下女は文九郎と顔見知りだ。文九郎は林英昌の家からまっすぐその家へ向かった。
だが出涸らしのお茶を三杯飲まされながら聞いた話は、林英昌の話を裏付けただけに終わった。圭之助と仲が良かったように思うと名前を出した二人も綾音から既に聞いて調べが済んでいた人物で、新たに気になるような人物は下女の口からは出てこなかった。
林英昌の話が確かだとわかっただけでも価値はあるのだが、文九郎は林英昌が話さなかった何かを見つけたかったし、あわよくば、辻斬りをしでかしそうな圭之助の友人を見つけたかったから、気落ちした。
――くそっ!なんでこうも辻斬り野郎を絞り込めねぇんだろう!
気持ちがムシャクシャしてきた文九郎の頭に太吉爺さんの声が聞こえた。
「急いても何も出ねえ時は出ねえもんだ。ちっとでも前に進めたなら、御の字よ」
太吉爺さんがまだ栗本の御用聞きをやっていた時に、当時まだ二十歳だった下っ引きに言い聞かせていた台詞だ。
――爺ちゃんならどうすんだろな、こんな時……
「文九郎殿!」
自分を呼ばわる声に文九郎は我に返った。歩きなれた庄兵衛長屋への道だから、ついぼうっと歩いていた。
我に返った途端に目に入ったのは、嬉しそうな顔をしてこちらに歩いてくる三島町の名主、藤兵衛だった。
文九郎はすぐさま真横に見えた路地へ入った。入り込んでからここは何処だと考えた。庄兵衛長屋の四つ手前の路地だ。文九郎はさっさと裏通りへ抜けて、今度は隣の路地に入り込んだ。そこでは「ごめんよ」と一件の店に上がり込み、その店の窓から向こうへ抜ける。藤兵衛を巻くにはこれしかないだろう。
藤兵衛の用件は綾音の縁談話の催促に違いない。綾音にはもちろん、用人の真鍋にも酒井にも文九郎は話していないのだから、揉めるのは必至だ。
いくつも持ち込まれた縁談の中で、藤兵衛が持ち込んできた相手は、油問屋河内屋の若旦那なのだが、文九郎がよく知らない人物だった。よく知らない理由は暫く江戸を離れていたからだ。これまでに持ち込まれた中では一番マシな相手かもしれないが、相手を知らずに話を進めることは絶対にしたくない。
――もう少し気長に待てねぇのかよ!
文九郎は心の中で毒づきながら、勝手知ったる長屋の裏道や抜け道を使って庄兵衛長屋へと戻った。藤兵衛の声がしないことを確認して庄兵衛長屋の路地奥にある稲荷の裏手に出た。稲荷の影にしゃがみこみ、路地の様子を窺おうと、そっと顔を覗かせた。
目の前にクリクリとした黒目があった。一尺も離れていない。
文九郎は声を上げなかった己を褒めたいと思った。なんとなく気配を感じないでもなかったからだが、それにしても見事な合致である。
クリクリ眼の主はアカだ。いつもなら町をうろついている頃だから、まさか稲荷の傍にいるとは思わなかった。
アカの方はとうに文九郎と承知していたと見え、尾を振って文九郎に鼻を擦り付けてきた。
「三島町の藤兵衛さんが近くにいねぇか見てきてくれるとありがてぇんだけどな」
立ち上がってアカの頭をなでながら、文九郎は呟いた。
アカは何を思ったか、一声吠えて文九郎と太吉爺さんが住む店を振り向いた。
めったに吠えないアカだから、文九郎は不思議に思いつつ、木戸の方に藤兵衛が現れないうちにと、店の引戸を開けた。
今度は目尻に小皺のある細い目と目があった。間近でなかったのを幸いと、文九郎は開けたばかりの戸を即座に閉めた。
羽織を着た白髪頭の男が上がり框に腰かけていたのだ。
一瞬で文九郎は相手を見極めていた。芝口二丁目の名主、長兵衛だ。もちろんこちらも綾音に縁談を持ち込んできている一人である。
――アカが珍しく吠えたのは、この辺の住人じゃない奴がいたからか。ひとの言葉、喋ってくれたらなぁ……人間ときたら、どいつもこいつも、てめぇのことだけ考えやがって!
文九郎は木戸へ向かって素早く移動した。
藤兵衛がいないことを確かめ、文九郎は木戸を出て北へと向かった。
長兵衛が持ち込んできた縁談の相手は、文九郎にしたらよりにもよって足蹴にして土をかけたくなる相手だった。親や役人に対しての外面は良いが、その他大勢に頗る横柄なのだ。文九郎には長兵衛がその二面性に気づいていないのが信じられなかった。
その上はっきり断ったのに、一度綾音様とお目会わせをと食い下がってきた。会えば、綾音があの男の外面に惚れると思っているらしい。
――舐めてやがるぜ。
急いで木戸を出て藤兵衛と鉢合わせないように北へと向かったものの、文九郎には何処へ行くというあてはなかった。長屋に戻って一息つくつもりが、また出掛ける羽目におちいったのだ。
少し先に蕎麦屋の白菊が見えた途端、文九郎はとてつもない空腹感に襲われた。かけそば五杯くらいいけそうだ。
迷わず白菊に入り、まずはしっぽく、少しあとでかけそばも持ってきてくれと店主に直に頼んだ。「握り飯は?」と聞いてきた主は商売上手である。文九郎は頷きながら、一つくれと返した。
時刻は七つ過ぎ(午後四時頃)と中途半端だったが、店には文九郎の他に五人の客が上げ床や縁台に散らばって座っていた。
格子窓に近い縁台だけがら空きだった。
そこに文九郎は外を向いて腰掛け、蕎麦を胃の腑に流し込んだ。蕎麦二杯で空腹感が薄らいだところで、握り飯を頬張りながら林英昌との会話を振り返った。
儒学者であり、医者でもあるのだから、当然といえば当然だが、林英昌はかなりの物知りである。しかもおそらくかなり腕も立つ。表情も仕草も正々堂々としていて、疑わしいことは何もなかった。だがあのような御仁だからこそ、真意をごまかすこともできる気がする。
文九郎には人物の印象からはまさかと思えるが、今わかっていることからは、容疑はむしろ濃くなっていた。
佐吉の聞き込みで何が出てくるかだと思い直した時、格子窓の向こうに知った顔が見えた。権七だ。人足仕事の帰りに見えた。
ここのところの文九郎は、夜回りに忙しいのと、甲州屋の変な気配りで屋敷内の仕事をあてがわれていたため、権七を見たのはあの蕎麦の屋台以来だった。
文九郎は挨拶しようと立ち上がり、窓の格子に顔をくっつけるようにした。
権七は博徒風の男とすれ違ったところだった。
一見ではただすれ違っただけのようだったが、文九郎の目は、すれ違うその刹那に博徒風の男が権七に何か手渡したのを認めた。見事な手際だった。やはり権七は只者ではない。
――まさか悪事を企んでるんじゃねえよな……




