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月夜の鵺  作者: 空木弓
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第二部 鵺 (一)

 

「目付方め、てめぇらの無能ぶりやこっちが頼んだことは棚に上げて、文句ばっかりつけてきやがる。こっちは町地のことで手一杯だってんだ」

「本当に目付方は手がかりをつかんでいないのでしょうか?」

「ふん。そこんところも怪しいよな。捕まえたところであっちの手柄になるんだ。これまでどおり適当にいなしておこうぜ。問題は、辻斬りの野郎だ。やっぱり稲葉家が下手人を捕まえる鍵だぜ。おい、文九郎!」

 突然栗本に名前を呼ばれ、文九郎は慌てた。

 柴井町の番屋の奥で栗本と坂本が話しているのを文九郎は佐吉と並んで上がり框に座り黙って聞いていたのだが、話があるとしたら、今夜の見回りのことぐらいだと思い込んでいた。

「へ、へい」

「なんとしても亡き稲葉の殿様の怪しい知り合いを見つけだせ!」

「あっしが、ですか?」

「おめぇしかいねぇだろう!目付方はあてにならねぇ!」

 業を煮やした栗本の怒声が番屋に響いた。


 稲葉の殿様を襲ったのが辻斬りにとって転機だったのか、それから二十日近く経つが、この間に新たな被害者は出ていない。しかし振り返ってみると、月明かりがない晦日、朔日前後に起きたことがないから、二十日近く起きていないというよりは、起きても不思議ない頃合いとしては十日程起きていないという程度である。

 文九郎が捕らえた二人組は最近芝に移ってきた強請と喧嘩の常習犯で、先に辻斬りの逃亡を助けた連中でもその仲間でもなかった。

 そして、武家屋敷や寺社では引き続き盗みが起こっているらしいが、町方の夜回り増員が功を奏しているのか、町地では大きな盗みも起こっていない。

 しかし辻斬りがないから良し、では済まされない。下手人を野放しにしていては、いつまた犠牲者が出るかわからないからだ。

 目付方は当てにならないうえに、上役からは探索の進捗を毎日尋ねられ、栗本の苛立ちはつのる一方だ。

「それまで町人ばかり狙ってたのが、わずか二日後にあの殿様を斬りに金杉の浜へ降りたんだ。いわくありに決まってるじゃねぇか。辻斬り野郎は今動いたらやべぇと鳴りをひそめてるんだ。そいつを炙り出すためにも、文九郎、おめぇが稲葉家に探りを入れるんだ」

「町人のあっしがどうやって?」

「おめぇ、姉貴が稲葉家の元嫁だろうが。通夜んときに屋敷に入ったんだろうが。話聞くのに良さげな御仁の見当つかねぇか?」

 文九郎も全く考えなかった訳ではない。しかしあの稲葉家の雰囲気、特に大奥様と三之助の様子からは、とてもではないが、まともに話を聞けるとは思えない。

 話ができるとしたら、叔父の儒医者ぐらいだが、綾音によると、それほどつきあいはないらしい。果たして圭之助の知り合いをどの程度知っているか、肝心のその点が怪しい。

「辻斬りと関係なきゃ、お家騒動だと思うところなんだがな」

 栗本は前にも同じことを言っていた。

「お家騒動にしちゃ、お家を継ぐことになる三之助様は狼狽えてやしたよ」

「らしいな。芝居ってこたぁ、ねえか?」

「旦那、三之助様が辻斬りだと仰るんですかい?」

 文九郎は声がひっくり返りそうになった。と同時にあることを思い出していた。三之助も叔父の儒医者も背丈は文九郎が追いかけた辻斬りと同じくらいなのだ。

 ――いや、まさか、あのおどおどした三之助が……剣術は叔父の方が上手そうだし。そうだ、叔父の儒医者には驚かされたんだ。すぐ後ろに立つまで気がつかなくて……いや、あの落ち着いた御仁がそんな辻斬りなんか……

 文九郎が通夜の晩に見た二人を思い浮かべながら考え込んでいると、ぬっと目の前に逆さまになった栗本の顔が現れた。

「うわっ」

 声をあげ、文九郎は顔を避けようとして、上がり框の前に敷いてある玉砂利の上に転がった。

「痛て……」

 栗本の強い視線に慌てて正座する。玉砂利の上だから、座り心地は非常に悪い。

「文九郎、なにか隠してるんじゃねえだろな?」

 栗本が上がり框から両手を腰に当てた姿で文九郎を見下ろして言った。

「だ、旦那に隠し事するわけねぇですよ。辻斬り野郎の見当がついたら、真っ先に旦那に知らせやす」

 最近は妙なことに忙しくなっている上に栗本から難題を突きつけられ、文九郎は升で酒を食らいたい気分だった。


 文九郎が手柄を上げた五日後、約束どおり、栗本は太吉爺さんを説得して文九郎に手札を出し、文九郎はめでたく太吉爺さんが使っていた十手を持ち歩けるようになった。

 しかし、太吉爺さんが折れたわけではなかった。真っ当な稼ぎで自分を養えるなら、という条件付きだったのだ。自分が乾上がるようなら、また文九郎が博奕に手を出したり悪事に加担するようなら、即刻手札を返上しなければいけない。この条件は新米の御用聞きにはかなり厳しい。

 それもあって、文九郎は引き続き杢二郎親分一家の助太刀という立場を続けていた。

 自身の下っ引きは一人もいない。しかしこうして栗本の旦那から直に命じられて一人でやるのは厳しい。文九郎は、杢二郎親分に佐吉を借してくれと頼まないといけないと思った。

 他に頼りになる人物といえば、結局は太吉爺さんだけだ。

 自身を売り込んできた寅吉は到底役に立つわけがなく、川村は間違いなく頼りになるし、頼めば快く力を貸してくれるだろうが、侍だ。侍に頼るわけにはいかない。

 ――佐吉が手伝ってくれたら、なんとかなるさ。

 文九郎はそう思うことにした。

 そうして新見家の跡継ぎ問題もまだ片付いてはいなかった。綾音はまだ祖母を説得できていないらしいのだ。

 刻々と主馬の命が削られていく。

 しかし実のところ、新見家のことは文九郎にあまり実感できていない問題だった。これまでもそうだったように、今後も新見家で暮らすつもりはない。それだけだ。


 それからおよそ一刻後、文九郎は新見屋敷の潜り戸を叩いていた。

 栗本の命を成し遂げるには綾音に相談するしかない。だが綾音に会ったことが町屋の連中に知れたら厄介だ。

 文九郎は新見屋敷へはわざわざ愛宕の方まで遠回りしてたどり着き、潜り戸が開くまでの間も誰かが見ていないかと辺りを窺った。

 甚兵衛が開けかけた潜り戸を文九郎は自ら必要なだけ開けて素早く中へ入った。

「どうなさったんで?」

 甚兵衛が目を丸くしている。驚くのも無理はない。しかし理由を説明するのは後だ。

「綾音様はいらっしゃるかい?」



 綾音は自室で本を読んでいた。文九郎には読めそうにない漢字ばかりの本だ。文九郎を見ると明るい顔になり、さっと書物を片付けた。

 綾音の文机には、楊弓屋で貰った土人形と並んで、文九郎が贈った雛人形が飾られていた。安い紙製の立雛だ。

「そんなのまだ飾ってんですか」

 文九郎の視線に綾音が微かな笑みを浮かべた。

「ええ、見てると心が和みますから」

 文九郎は初めて十軒店の出店で立雛を買ったときの恥ずかしさが甦り、顔が熱くなるのを感じた。

 この時代の雛祭りは、日頃世話になっていたり大事に思う女性に贈り物をする日でもあったから、値段や大きさじゃない、気持ちだよとおなかとお梅に背を押されて出掛けた十軒店の雛市だった。

 雛人形を手渡した時の綾音の顔も思い出した。ありがとうと言いながら、愛おしそうに立雛を見つめた顔が文九郎には眩しかった。

「暫く顔を見せないので、そろそろわたくしの方から出掛けようと思っておりました」

「いや、ご足労には及びやせん」


 今、綾音に庄兵衛長屋へ来られては困る。文九郎の都合ではなく、文九郎の都合を考えずにやってくる仲人面した名主や家守のせいで、である。

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