第一部 姉 (十九)
この日芝神明の境内で上演していた芝居は、文九郎が見たことも聞いたことも無い演目だった。「隅田川狐俤」というどこかで見たような字面で、お題目からは狐が出るらしいとしかわからない。少し前におなかが見て「よかったよぉ。泣いたよぉ」と言っていた演目かどうかも怪しい。そうであってくれと、文九郎は祈った。
綾音は芝居小屋に入る前に小屋の前に賑々しく立っている幟の一本を見つめていた。父母の間に挟まれて幸せそうな幼子が描かれている幟だった。その子供に尻尾がついているから、実は狐という落ちなのだろう。
芝居小屋の狭い入り口を抜けると、筵を引いた土間席とその両端には一段高い桟敷席があった。仮小屋のはずがなかなかしっかりした造りに文九郎には見えた。満員にはならないだろうし、万が一なにかあったときに外へ出やすいと、二人は土間席の後ろの方に座ることにした。
表情は変わらないが、綾音が芝居の始まるのを楽しみにしているのが横にいる文九郎に伝わってきた。連れてきて良かったと、心の底から思った。
欲を言えば、おまさも連れてきたかった。女同士の方が芝居を見て盛り上がると思うからだ。だが何を勘違いしているのか、おまさはお二人でどうぞと断ってきた。
酒井と川村も遠慮してきた。遅くなるようなら迎えに行くが、まずはお二人でお参りから芝居見物を楽しんでください、だった。
客席が半分ほど埋まったところで、芝居の幕が開いた。片胡座をかいている文九郎の横で、綾音はきちんと正座し、手は膝の上に置いて舞台を見つめていた。
綾音に変化が起こったのは、芝居が始まって間もなくだった。
舞台では子供のできない夫婦が子宝にご利益があるという山奥の社にお参りに来たという設定で、夫婦の会話が長々と繰り広げられていた。
文九郎はすぐにこれはまずいと思った。思わず横に座る綾音の顔を見た。
――しまった……なんで粗筋を確かめておかなかったんだろう!
「そりゃ、お前との子ができれば何より嬉しいが、できなければ、養子をもらえば良い。二人で育てよう。お前は良い母親になる……」
その台詞を舞台で主人公の男が言った直後だった。綾音の肩が震えた。ぎゅっと両手を握りしめた。目は舞台を見つめていたが、見てはいないと文九郎は思った。これはいけない。
すぐ隣にも客がいるなか、騒ぎを起こすわけにもいかず、文九郎は咄嗟に前に新見の屋敷で同様のことが起きた時と同じことをした。綾音が強く握りしめた拳をそっと自分の手で包んだ。
――力を緩めてくれ。頼むから、自分を傷つけないでくれ!
文九郎の心の叫びが届いたのか、前と違って綾音は文九郎の手を振り払わなかった。顔を見ると、目が潤んでいた。今にも涙が溢れそうな目だった。だのに、とうとう溢れなかった。綾音は瞬きせず、芝居を見続けていた。そうやって涙を堪えたのだ。それもまた文九郎には不思議だった。そんな綾音の様子から、文九郎は悟った。
――姉さんは圭之助様と添い遂げたかった……今の台詞は圭之助様に言ってほしかった言葉だ……
文九郎は離縁を言い渡された時の綾音の気持ちを考えると、胸が締め付けられた。そして、そんな本当の気持ちを綾音はひたすら内に抱え、誰にも言っていないのだと思った。
子ができなくて離縁になった武家の娘になかなか再縁の話は来ない、来ても条件がかなり悪いと、栗本の旦那が言っていた。
一方で文九郎の知る中には、子供がいなくても離縁せず、ずっと仲良く暮らし続けている夫婦が何組もいる。町人にも、武家にもいる。そうした夫婦は本当に仲睦まじく、家はそのうち養子を迎えて継がせば良いと考えている。そもそも乳幼児の死亡率の高かった時代である。養子を迎えるのはよくあることだ。
これまでの綾音を見てきて文九郎は確信していた。綾音は真面目な良い嫁だったはずだと。あの大奥様のいびりにもめげず。
――愛想が悪いくらいなんだってんだ。やたらと愛想振り撒いて厄介ごと招くより良いじゃないか。
もしかしたら稲葉家で堪え忍ぶうちにあの死んだ魚の目になったのかもしれないと、実は今朝、文九郎は予告していたよりも早く新見の屋敷へ行き、綾音が母家を出てくる前に酒井を捕まえて嫁ぐ前のこと、昔のことを尋ねていた。
予想どおり、綾音は産みの母が町人の娘ということで、祖母に厳しい躾を受けて育てられていた。酒井は見ていて綾音が可哀想だったという。
ただその厳しさとは、文九郎が近所にいたいじわる婆さんや稲葉の大奥様から想像していたのとは、少し違っていた。
穏やかそうな風貌どおり、声をあらげることはなく、悉くケチをつける、揚げ足をとるような躾だったらしい。
やはり中身は鬼なのだと文九郎は妙な納得をした。
「綾音様は聡明なお方ですから、あそこまで細かく指図なさらなくて良いだろうにと思いました。しかし某ごときに大奥様に意見することはとてもできず、ただ見守るしかありませんでした。某に愚痴を溢してくださったら、いつでもお慰めするつもりでいたのに、綾音様は愚痴は一切溢さず、じっと耐えておられて……いえ、縁談は先様からでありました。先日は約定がどうのと稲葉の大奥様は仰せでございましたが、某が聞いておりましたのは、稲葉の御先代が綾音様の器量を見込んで、とのことでしたから、大奥様は厳しく躾けた甲斐があったと喜んでおられました。それだけに三年前に離縁となった時は大奥様の方が悔しそうなご様子でした。
綾音様はというと、淡々と大奥様に詫びをいれておられましたな……せっかく用意していただいたのに金子も嫁入り道具も無駄にしてしまいました、と……
は?もちろん大奥様は綾音様を責めるようなことは仰いませんでしたとも。はい、母君とはこのお屋敷でお別れになって以降はお会いになったことがないと思います。
いつから死んだ魚の目になったのか、でございますか?……死んだ魚の目……まぁ、そのぉ……嫁がれる前から、感情を表に出さなくなってはおられました。いつからといえば、十になるかどうかの頃からでしょうか。お戻りなられてから一層表情が変わらなくなったとは思いまする……」
そんな酒井の語りを聞いているうちに大奥様に見つかり、茶飲み話につきあわされのは、文九郎の大きな誤算だった。濡れ縁に座り、四半刻近く、今は亡き大殿と自分の昔話を繰り返し聞かされたのだ。
途中で何度か文九郎は放蕩息子のことを聞こうとしたが、すぐに自分の話に持っていかれた。綾音のことを聞こうとしても無駄だった。婆さんの頭には大殿と自分のことしかないらしい。
――何なんだ、この婆さん。こんなヤツに揚げ足とられたらたまらねぇな。小言言われたって聞く気にならねぇぜ。
文九郎は綾音の苦労を思った。
文九郎は芝居見物半分、綾音の様子見半分でいたから、後半には話についていけなくなったが、冒頭以降、綾音が拳に爪をたてるようなことはなかった。
幕が下りた時、やれやれと文九郎は肩の力を抜いた。芝居見物でそんなに疲れるとは予想していなかった。
芝居小屋を出たところで、綾音は文九郎の方は見ずに言った。
「楽しゅうございました。また観に来れたらと思いまする」
どこを見ているのかと思ったら、芝居小屋の斜め前にある楊弓屋だった。
「弓、お出来になるんでやすか?」
「はい。小さい頃に少々習いました。嗜み程度ですけれども。小太刀の方が自信あります」
「小太刀を振るうところはねぇから、弓、行きやしょう」
芝居の演目で大失敗した気分の文九郎は、綾音が少しでも興味を示したら、それにつきあう気でいた。
楊弓屋の矢取り女たちは、文九郎ではなく御高祖頭巾の女の方が弓を手にするのを驚きと好感の目で見守った。
他には男ばかり、二組の客がいた。よくあることだが、矢取り女たちの尻ばかり狙っていて、まともに的を狙っていない。
文九郎は居合わせた客の品の悪さに、綾音がここにいることをどう思うかと汗が出てきたが、綾音は一切気にしていない風に見えた。手にした弓をざっと点検すると、矢を番えてすぐにキリリと弓を引いた。
ピュッと良い音がして、見事に的の中心近く、一番小さな円内に命中した。
矢取り女たちが「当たーりぃ」という決まり文句と感嘆の嬌声を挙げ、二組の客は感心と侮りの二手に分かれて綾音を見ていた。
綾音は女たちに軽く礼をすると、すぐにまた矢を番えた。
ビュッと先程よりも鋭い音がした。
矢が当たった箇所は先程より更に中心、ほぼど真ん中だった。
「上手い!」
思わず文九郎も声が出た。
綾音は淡々と的の中心に矢を当てていく。
的の方ばかり見て、当たる度に矢取り女達と一緒に囃していた文九郎だったが、ふと綾音の顔を見ると目が潤んでいた。綾音の心の中に何かが起こっているのだ。先程芝居で乱された気持ちを引きずっているのかもしれない。
文九郎は涙がほろりと溢れたら、すぐに拭えるようにと、懐に入れてある手拭いの位置を確かめた。しかし、ここでも綾音の涙は溢れなかった。
十本の矢を全て一番内側の円の中に納めた綾音は、帰りに楊弓屋から賞品を渡された。長さ五寸程(約15㎝)の小さな包みだった。
「中身はなんでやす?」
綾音は文九郎の目の前で包みを開けた。
中から出てきたのは、大きな弓を持った四頭身くらいの塗りも形も粗い武者姿の土人形だった。化物の鵺退治で有名な源頼政のつもりのようだが、頼政公も怒りかねない粗末さで、期待していなかった文九郎の期待を更に下回る代物だった。
「どうせなら食い物の方が……」
そう言いかけた時、文九郎の頭に閃いた。
――辻斬りの下手人が付けていた口面、あれは猿だ!それから頭巾に模様が入っているように見えたのは、あれは虎のような縞が入っていたのでは……。気がつかなかったけど、蛇を思わせる物も身につけて鵺の扮装をしていたんじゃねえか?
顔を隠すために猿の口面を付けていただけとは、文九郎に思えなかった。
鵺ならば、腹立たしいが、辻斬りの扮装として猿より相応しいし、あの格好は適当に見繕ったと考えるより、辻斬りにとって意味があると考える方が納得できる。
圭之助の知り合いに鵺と繋がりそうな人物がいないか尋ねようと文九郎は綾音の顔を見た。そこで目に入った光景に心の臓がおかしくなるほど驚いた。
なんと、綾音の両目から涙がポロポロと溢れていたのだ。
*念のための補足: 鵺の正しい説明は、そのうち出てきます。




