第一部 姉 (十八)
初めて惣門から芝神明の中へ足を踏み入れた御高祖頭巾を被った綾音は、祭りの日でもないのに大勢の人がいる賑わいに驚き、いくぶん緊張していた。この日も鼠色の地に薄く草花の模様が散らばる地味な着物を着ていた。帯に差した懐剣の袋も藍鼠だ。
町人の娘ならば華やかな着物を着ていては咎められるが、武家にそんな縛りはない。
もっと明るい色の着物を着れば良いのにと、その姿を見た時に文九郎は思ったが、考えてみたら離縁したとはいえ、元旦那が亡くなって三日後だった。無難な装いだと思い直した。
そして文九郎の方も変な緊張感に苛まれていた。
一つは綾音とほぼ並んで歩いていることにあった。傍目には武家の妻女とその奉公人に見えるはずである。奉公人は主の後ろを歩くものだ。しかし綾音が文九郎を後ろにさせてくれない。
「気にすることはありませぬ。おまさも申していたように、文九郎とわたくしは顔立ちに似ているところがあるのです。見る人が見れば姉弟だとわかります」
そんな物わかりの良い「見ればわかる人」がどれだけいるのかと、文九郎は文句を言いたいところだったが、そもそも誘ったのはこちらだったと、ぐっと言葉を呑み込み、わずかに綾音より下がって歩くことで妥協していた。ために、厄介ごとにならなければいいがと、落ち着かない。
緊張のもう一つは、芝神明の惣門に近づくにつれ、大きくなってきた。
惣門を入ってすぐの道を左に行けば、何度か行ったことのある引手茶屋と置屋があるのだ。会いたくない奴に会う確率も高い。
恐れていたとおり、こんなときに会いたくない一番手の寅吉が、引手茶屋が並ぶ道から参道へ出てきた。
――こいつ、しょっちゅう置屋に行ってやがるな。そんな金、どうやって稼いでるんだ?
文九郎が女連れなのに気づくと、寅吉は大袈裟に驚いてみせた。
「文九郎、きれいどころを連れてるじゃねぇか。隅に置けねぇなぁ……てこたぁ、おなぎとは縁切りかい?」
「何勝手なこと言ってやがる。今日は一日、俺はこちらの御姫様のお供なんだ。おめぇとつまらねぇ口きいてる暇はねぇ」
綾音は寅吉と文九郎を代わる代わる見ていた。
「さ、御姫様、こんな奴にかかわり合ってる暇はありやせんぜ。早くお参りいたしやしょう」
文九郎は綾音の背中を押して先へと促した。綾音は文九郎に押されながら寅吉の方を振り向いた。
「文九郎殿のお友達ですか?」
「ただの知り合いです。口利かねぇ方がいいっすよ」
「おなぎとは誰のことですか?文九郎殿と縁がどうのこうの……と、ただのお知り合いの方が仰っていましたが」
「あんな奴にそんな丁寧な言葉使いしねぇでください。もったいない!」
楼門を抜けると、神明様の境内が大きく広がり、人混みがばらけていく。
境内には葦簾張りの水茶屋に料理茶屋、小間物を売る見世が幾つも並んでいる。芝居小屋は右手にあり、拝殿はこの広場のほぼ真ん中だ。
「拝殿でお参りしたら、茶屋で一息入れやしょう」
「おなぎ殿とは将来の約束をしているのですか」
綾音は一度耳にした「おなぎ」を聞き流してくれなかった。拝殿に向かいながら、文九郎は仕方なく説明した。
「おなぎってのは、この近くの置屋にいる女郎でやす。これまでに……えーと、そのぉ……何回か、そのぉ……関わりをもっただけなんでやすが、寅吉の奴、おなぎを好いてるから、勝手にあっしを恋敵にしてやがるんですよ。迷惑この上ない」
綾音は答える文九郎をじっと見ていた。
「心を寄せる人ではないのですか?」
「好いてはいやすが、本気で惚れてるかと言われれば、惚れちゃあいません。おなぎには他に間夫、本気で惚れた相手がいますしね。……綾音様には岡場所へ行くなんざ、あの『ろくでなし』と同じように思えるかもしれやせんが、あっしの中では違いやす」
綾音は首を横に振った。
「わたくし達の父上は素人の娘に次から次へと手を出したのです。わたくしは置屋に通うより、ずっと質が悪いと思っています」
文九郎が初めて聞いた綾音の俗な物言いだった。
「綾音様は父君のことを覚えておられるんでやすか?」
つい話の流れで文九郎は尋ねてしまった。聞いてから後悔したが、覆水盆に返らず、である。
綾音は文九郎を横目で見上げてきた。怒っている風はない。
「『父君』?『父上』でしょう。あなたの父親でもあるのですから」
綾音は文九郎の呼び方を窘めるとすぐにまた前を向いた。
「覚えているのは、庭の梅の木から花を取って私の髪に差してくれたことだけです。梅の花よりもお酒の匂いで気持ちが悪くなったことを覚えているのです。生きているお姿はそれだけ」
あのろくでなしも綾音にはそんな少しばかり父親らしいようなことをしたのだ。初めてもうけた子供、しかも可愛らしい娘だったからか。それも酔っ払った勢いでしかなかったのか。
「あとは死に顔。肌の色が青黒くて、気味の悪いお顔でした。親戚の人が死んだという風にしか思えず、少しも悲しくはなく、ただただ気持ち悪がっていたのを覚えています」
文九郎はぎくりとした。二日前の稲葉圭之助の横たわった姿が頭に浮かんだ。
綾音も思い出しているのではないかと顔色を窺ったが、変化はなかった。文九郎はほっとした。
「ほんとにお屋敷にいなかったんでやすね……御正妻も御妾もお屋敷に置いておきながら」
「お祖父様と顔を会わせたくなかったのでしょう。その辺りのことはおまさがよく知っています。お祖父様は廃嫡もお考えになったようですが、お祖母様が反対したと聞いています。父上に対しては、お祖母様は全く叱ることをしなかったようです。真逆なのも落ち着かなかったかもしれませんね」
「ふうん。母親には甘やかされてたんだ。その一方で、俺が似てるっていう爺さんは、相当厳しかったんだね。しょっちゅう怒られたりケチつけられてちゃたまらねぇとは思うけど、怒られて拗ねたりひねたりしてもなんにもならねぇ」
拝殿は目の前だ。数人が列を作っている。
綾音から強い視線を感じ、文九郎は思わず横を向いて綾音の顔を見た。
じっと見つめてくる目に文九郎は好奇心を感じた。
「どうしやした?」
「文九郎ならどうするのでしょう?」
「えっ?」
「厳しい躾に、生き方も押し付けられたら……」
文九郎は思い返した。太吉爺さんも厳しいのは厳しい。よく喧嘩もしてきた。だが……
「そうだね。俺なら悉く言い返して、どっちも引かない大喧嘩になっちまって、あっさり『出ていけ!』の勘当。それで終わるんじゃねぇかな。勘当されたから、屋敷には戻りません。終わり」
綾音の目が笑った気がした。気のせいか。
「さ、並びやしょう」
文九郎は綾音を促し、参拝の列の最後尾についた。
「お酒に溺れたりはしない?」
一瞬、文九郎は何のことだと思った。綾音は話題を変えなかったのだ。
「……どうだろね。そもそも金がないから、あんまり飲めねぇってことになりそうだよ。相手が誰にしたって、てめえが納得できないことに黙って言いなりになるのは性に合わねぇ。爺ちゃんに商家に奉公に行かされたけど、すぐにやめちまった」
文九郎は笑ったが、綾音は笑わなかった。気まずさに文九郎は喋り続けた。
「あの太吉爺ちゃんも相当頑固でキツいよ。ちっちゃい頃からよく喧嘩してきた。でも家出しようと思ったことはねぇんだよな……貧乏だってのが一番大きいかもしれねぇ。身内は一人ってのと」
綾音の視線を感じながら、文九郎は更に続けた。
「爺ちゃんがいなくなったら、俺は一人ぼっちになるし、なにより苦労して俺を育ててくれたんだ。そんな爺ちゃんを放ってはおけない」
それだけだろうかと文九郎は思った。振り返ると、太吉爺さんと文九郎はしょっちゅう言い合いをしてきた。双方、言いたいことは全部吐き出して、どっちも折れない。
――……なんで、一緒に暮らせてるんだろ?
文九郎にもわからない。ありがたいことに、ちょうど参拝の順番が来た。
文九郎と綾音は並んで同時に賽銭を投げ、同時に礼をし、手を叩いた。しかしその後は違った。
綾音は長く手を合わせていた。色々なことをお願いしたようだ。
その真剣に祈る横顔を見ながら、文九郎は神明に足を踏み入れてからの綾音が無表情ながらも死んだ魚の目ではないことにほっとしていた。文九郎と話すのに慣れてきたからかもしれない。
文九郎の方も綾音を姉と思う気持ちが染みこんできていると感じていた。そんな文九郎の気持ちを見抜いてか、お参りを終えた綾音が切り出した。
「文九郎殿、そろそろ『綾音様』はやめてください。『姉上』と呼んでもらえませぬか。先ほどのような誤解を避けるためにも」
「『姉上』という柄じゃありやせんよ。あのぉ……『姉さん』では駄目でやすか」
その時、綾音は不思議な表情をした。少し眉をしかめ、口元が開きかけてまた閉じた。再び開いた口から出てきたのは、「文九郎殿がその方が呼びやすいのでしたら」と、控えめな許容の言葉だった。




